マガジンのカバー画像

日越関係の濃淡

31
朱印船貿易時代から現在に至るまでの淡く時により濃い日本とベトナムの関わり
運営しているクリエイター

#弁護士

東京裁判 COUNT33. 仏印進駐

東京裁判 起訴状  極東国際軍事裁判所(いわゆる東京裁判)は,1943年12月1日のカイロ宣言、1945年7月26日のポツダム宣言,1945年9月2日の降伏文書及び1945年12月26日のモスクワ会議に基づいて,またこれらを実施するために設立された。  いわゆる東京裁判であるが,その起訴状は,1928年1月1日から1945年9月2日までの間における平和に対する罪,通例の戦争犯罪及び人道に対する罪について,28名の被告を訴追する55の訴因を挙げた長文のものである。  起訴状は

「サイゴン裁判」を知りたい

 令和3年(2021)は,アメリカ,イギリス及びオランダと開戦した昭和16年(1941)から80年となる年。  これら「連合国」同様,アジアに植民地を有していたフランスに対し,日本が攻撃を開始したのは,4年後の昭和20年(1945)3月9日から10日にかけた深夜。同じ頃の東京では,米軍によるナパーム弾の炎雨が人を街を焼き尽くしていた。  ベトナム,カンボジア及びラオスからなる仏領インドシナにおいて,約80年植民地支配を続け,昭和15年9月以降は日本の進駐を容認するなど協力関

戦時下のサイゴンに日本が作った「南洋学院」の今

 戦時中の昭和17年(1942)から昭和20年にかけて,ベトナムのサイゴンにあった,陸海軍ではなく,文部省・外務省共管による「南洋学院」。  その第一期生で福島県出身の方の著書「南洋学院 戦時下ベトナムに作られた外地校」。  ''まえがき''に「戦時中の昭和17年から20年にかけて,当時のフランス領インドシナのサイゴンに南洋学院という学校があった。文部省・外務省共管,公費の旧高専校で,『東洋民族の共存・共栄,邦人発展のため,その第一線に立つ指導的な人材を養成すること』を目指

教科書の上のディエン・ビエン・フー

 令和元年(2019)7月,ハノイのノイバイ空港から,ベトナムエアサービスなる航空会社のイタリア・フランス製プロペラ機ATR72で,ラオスとの国境近くのディエン・ビエン・フー (Điện Biên Phủ)を訪れた。  この空港は,もともと旧日本軍がフランスとの協定に基づいて1940年頃に設営した飛行場が前身で,1953年頃,その存在を思い出し,ベトナムとの戦争で利用を思い付いたフランス軍が,この飛行場を再整備,空から人・物を輸送し,このディエンビエンフー に堅牢な野営塹壕

「援蒋ルート」を今に上る鉄道の旅

 隣の大国・武漢に由来するウィルスに対する警戒は,既に日本の比ではなかった2020年2月上旬のベトナム北部。  ハイフォンからハノイへ鉄道で移動。  これはフランスがベトナムに敷設した僅かな鉄道の一つ。単線で,電車ではない。1902年に開業し,ハノイ近郊のザーラム駅(Ga Gia Lâm)で分岐し,ベトナムのランソン(Lạng Sơn)からChinaの南寧まで,ラオカイ(Lào Cai)から昆明まで繋がっていた。  アメリカやイギリスが,1937年から日本と抗戦状態にあり

坂の上の「明治」とベトナム

 ベトナムの中学生(4年間)が使う歴史の教科書には,明治から戦後復興までの日本が,かなりの ページ数で描かれています。  とりわけ明治維新(Duy tân Minh Trị)については,フランス革命以上の扱いです。明治天皇(Thiên hoàng Minh Trị )による親政とされていて,日本だとアレルギー反応を起こす人が騒ぎそうですが,対外的な評価はそんなものかもしれません。  労働者に圧政を敷いた面ばかりが強調されがちな日本と違って,社会主義国ベトナムは,最も多感な中学