見出し画像

黄緑色の若い竹の芽が、

家のすぐ近くの林に、針葉樹に混じって大きなユズリハの木があった。

東側の窓からは真正面にそれが見えるので、毎朝窓を開けると、ユズリハの名前のとおりに葉っぱが生え替わっていく様や、枝に鳥がとまったりしているのを、ぼんやり眺めていた。

ある日、

町内のお爺さんが、突然そのユズリハを切った。根元からバッサリとやった。
思わず、

「ええっ、どうしたんですか!?」

と問いただす。

お爺さんの主張を聞くと、、、
まぁ、百歩譲って、それは理解できないこともないけれど (長くなるのでそれは割愛) 、

ああ樹木をこんなふうに!
ああなんてもったいないことをしてくれるんだ!

私は憤っていた。

ユズリハの木がなくなって、そこにはぽっかりと空間ができた。

毎朝窓を開けて、殆ど切り株だけになったユズリハと、その穴のように広がった空間を見ていた。

その穴は虚しかった。

梅雨に入り、林の若葉の勢いが増す頃、

ユズリハが消えて陽が差し込むようになったこの空間から、

笹竹の芽が出た。

近くで繁茂している笹竹の地下茎はここまで伸びてきており、そこから、何とも瑞々しい、柔らかな黄緑色の若い芽が、空間と日差しとを受けて、出てきたのだ。

笹竹ではあるけれど、それはまさに破竹の勢いで、
見る度に、
ズーン、、、ズーン、、、
と、あっという間に伸びていく。

そうして空間は、少しずつなくなっていった。


さてユズリハはどうなったかというと、

こんな切り株だけになってしまって、きっとダメだろうと思っていたのに、

しばらくすると、

残った幹のあちこちから、
こちらもまた何とも瑞々しい、透き通るような黄緑色の若葉が、
ひとつまたひとつとに出てきて、
ついには幹が全く見えなくなるほどに、葉っぱで覆いつくされた。

 “何も心配ない、大丈夫” 

まるでそんな風情だ。
私が驚いたり怒ったりしている間に、植物というのは淡々と次の準備をしていて、それは何も心配ない、問題ない世界であるのかもしれない、、、いいえ、私たち人間も、この自然の一部である以上、こうして驚いたり怒ったりしている間に、この内部では、きっと同じように、次の準備をしているものであるのかもしれない。

相変わらず毎朝窓を開けて、

この空間が日々、何の心配もない、瑞々しい黄緑色で覆われてゆくのを見ている。

大谷有花『ウサギねずみの対話 Ver.44、47』
「美大10年」展、追悼展示


大谷有花
「美大10年」展 (秋田経済新聞)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?