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寂びた落書き #3

「おーい、酒やー」 
 柄の悪い常連客達の大声が、是非もなく店内の様子を賑やかに、華やかに彩っていた。
「はい、ただいま」
 何ら卑屈になる事なく、愛想の良い態度でテーブルへと酒を運ぶ侑司の母紗季。有難い事に彼女が実家の一階で経営するこの居酒屋は、何時もこのような感じで賑わいを見せ、この少し寂れた昔ながらの下町の雰囲気に、オアシス的な存在として愛されていた。
 漁師町でもあった為、懇意にして貰っている漁師や水産会社からは結構な頻度で旬の魚介類等も頂戴し、時にはそれを商売品として使っていた紗季の、抜け目のない手腕も笑って済まされる下町の粋が、尚更皆の心を和ませる。これが生来恬淡であった紗季の本心ではなかったとしても。
 それでもこの店の主たる客であった常連客達は、異口同音に或る提案を挙げるのだった。
「ママよ、ええ加減値上げしたらどないやねん? こんな値段でよう商売が勤まっとんの~。今日日立ち飲みでももうちょっと取るんちゃうか?」
 確かに安価ではある。食い倒れで有名な大阪のような繁華街でもあるまいし、この寂れた神戸の下町で、この値段でやって行くのには少々無理があろう。酒もあても400円を超える品物は一つもない。生ビールの中ジョッキが200円で、あての悉くは200円を切る料金体系で、少し手のかかる炒め物の料理でも350円までと、賑わっているとはいえ決して薄利多売な形態をとる事が出来る訳でもないこの店が、経済的に潤っていたとは到底思えない。
 この日、仕事を早仕舞いした侑司は家で酒を少々嗜んだ後、客足が引きかけた頃合いを見計らって、実家であるこの店を訪れていた。接客を紗季一人に任せ、厨房から出て客に顔を晒す事はまずない、博打好きな料理人で、侑司の伯父でもある幸正の帰宅とすれ違いながら。
 狭くもだだっ広い空間を思わせる、雑然とする店内を忙しく掃除して回る母の姿が、不憫に見えて仕方ない。見慣れた光景であっても、幼い頃に父と死別し、女手一つで育った侑司にそれは感無量であり、世の不条理でもあるぐらいに胸が締め付けられる。
 食器洗いを母に任せて、テーブルを拭き、床を掃いていると、まだ残っていた独りの客が、酔った勢いでこう語りかけて来た。
「おう兄貴やんけ、久しぶりやな。仕事は巧い事行っとんかいや? え~? お前も早よ奥さん貰って、親孝行せんとあかんやろ? 年なんぼなったんどいや? もうええ年ちゃうんかい?」
 恰好をつける訳でもなかったが、この時の侑司の感情の大半は、怒りよりも寧ろ自身に対する憐れみで占められていて、他者や世間を対象と為す自己憐憫を嫌う彼が刹那的にも日頃から痛感していた、己が不甲斐なさに嫌気が差しながらも妥協と反骨心の葛藤に苛まれ続ける、脆弱な精神構造を元とする思考の原理性が、この場にあって尚更心的な自傷行為に甘んじてしまう。
 何時か治に言われた事が脳裏を掠め、胸を衝く。でも全てを自分自身の手で、思いで成し遂げたいと願う侑司の、本源的でありその精神の髄を為す健気で純然たる矜持が、他者という存在に抗いを見せてもしまう。
「いらん世話やったな、気悪くせんとってくれよ。ご馳走さん」 
 テーブルの上に金を置き、釣銭も受け取らないままに、颯爽と店を出て行く客だった。
 渡せなかったその釣銭を次の料金に宛てる母の性格は、息子の繊細な気質をして容易く見破られていた。それも一興これも一興で、酒の席にはありがちな話でもあったが、母の人の好さだけで成り立っていたであろうこの店の存続を、お得意ともいえる余裕をカマした客観的見地に立って見通す侑司の、華奢な顔の輪郭を光らせる数滴の汗。 
 その醜濁な汗を晴らす日は訪れる事を、彼は、母は、さっきの客は真に願っているのだろうか。現時点で思う侑司にはとてもそう一言に片づける事は出来なかった。

 仕事中にも暇を感じてしまう侑司が日頃から心がけていた習慣の一つに、厳として存在していた思考という、人間生命に欠かせないであろう、素晴らしい能力。
 こんな優れた才を授かっておきながら、それを使い熟す事が出来ていないように思われるこの現代社会は、一体何を目指し、何を以て未来を創って行こうというのだろうか。このままの状態が続き、それが長じて形を成すかもしれない、何れは訪れるであろうロボットが勇躍するAI化社会。
 そこにも一分の理はあろう。寸分違わぬ一瞬の隙さえ見せないそのような社会であれば人々は、いや、植物を含めた自然界、あらゆる衆生は何の障害にも曝される事なく、順風満帆な生涯を送る事が出来よう。特に浅はかな人類などはその便利性だけに執着し、歓喜の声を上げるであろう。
 その結果何が残るのかといえば、そこまでは解らない。それは正に有形無形の理(ことわり)を以て象られる、宇宙創造の秘話にも及ぶ話で、元々ない頭知性知識を振り絞っても、侑司如きが解明出来る問題ではない。
 戦国時代やバトルもののアニメにありがちな『死を覚悟しての生、生だけを願えば死あるのみ』などといった尤もらしい言葉が、時代錯誤な侑司の性分に悩ましい影を落とす。
 その陰こそ彼に内在され、払拭し切れない恣意的に創られたイデアの本質であり、それを後生大事に胸底深くに蔵(しま)ってしまう、悪癖と惰性ともいえる、精神を凌駕するほどの習慣が、遅咲きながらも芽を出そうとしていた。
 仰々しい月の白光に仇名す人為的な騒音。今や死滅したであろう暴走族が鳴り響かせる爆音が、まだ残っている現実も、都会であっても田舎のような半端な街並みを表すこの下町ならではの、所詮は暴れたいだけの短絡的な思考の許に集まった人類の、憂わざる畢竟か。
 でもその光景はただ禍々しいだけの、野生の動物にも劣る烏合の衆の貧弱な有り様を呈しており、サイレンサーを施し直観マフラーの音を最小限に抑えようとする防御姿勢が何とも微笑ましく、そこに隙を見出した侑司は、予てから温めていた策を実行すべく、地元の漁師rらと計って、港に沿う道路に、複雑な網を仕掛けていた。
 上辺だけの烈しい轟音は、それを自慢するように疾駆する夥しい改造車から 発せられる悲鳴という咆哮なのか。油断はぜずとも余裕のある面持ちでそれを平然と眺める族以上の精悍さを顕示する漁師達。
 その中の一人である侑司は、彼等とはまた別の世界に住まう者のような、テレビで観る警察二十四時を、実際に体験する恐怖と昂揚の狭間に身を窶すように、呆然と立ち尽くしているだけだった。
 先頭を走っていた一台の単車が、いとも簡単にその網に引っ掛かり、後続する単車も次々に足をとられて、路上に転舞(てんぶ)している。
 そんな無様な有り様を笑って見下ろす漁師の表情に、一点の隙を感じ取った侑司は、あろう事か味方である筈の漁師に向かって攻撃を仕掛けるのだった。
 何が彼を突き動かしたのか。地に伏せる運転手に軽く一礼し、その単車を起こして素早く跨り、自らの力で攻めかからんとする相手であり、今や敵とも見做せる漁師達は、ただおどおどと黙し、震えながら、侑司の物理的な攻めに精神的な防御壁だけで対抗していた。
「ゴラァァァー、お前ら轢いてまうどゴラー! どいたらんかいや! 死ぬ覚悟は出来とんかゴラァァァーーー! 」 
 海に泳ぐ魚でもあるまいし、敷かれているだけの網を搔い潜って先に進む事に雑作は要らなかった。
 侑司が最初に攻撃したのは、彼が相談を持ち掛けた、この地元の漁師の網元の跡継ぎと目される二三歳年上の、中学の先輩でもある林という男で、その者が怯む姿は滑稽でしかなかった。
 その次は番頭であるあの厳つい風貌の男か。これは厄介にも思えたが、何の事はない。己が親分が臆した影響がその身体に滲み出ているではないか。こんな事でよく漁師が勤まるものだ。これなら俺が代わって網元になっても良いのではないのか。
 そのような一時の迷いに傾倒すつほど莫迦な侑司でもなかった。反旗を翻した代償が、どのような災いを齎すかぐらいは明白で。ともすれば明日からはこの地元では生きていけない可能性すら有るのである。そうなれば正に本末転倒で、相談を持ち掛けた立つ瀬どころか、生死すら危うい。所詮はそれも儚い人生の物語に過ぎないのか。いや、まだそこまで悟り得る立場や身分に到達してはいない。自らが招いた下手打ちには自らがケジメをつけるしか道はないのである。是が非でもそうしなければ、それこそ後世に示しがつかない。温(ぬる)いだけの社会などまっぴらだ。
 己が非力な想いに化粧を施す事に依って、硬派な矜持とする彼の見え透いた思惑に、後陣に控えていた一人の男が全くの無傷の状態で、徐に語りかけて来る。
「何や、お前やったんか。なるほどな、此処はお前の地元中の地元やもんな。ない根性見せてよう頑張ったな、あっぱれやでな。でもまだまだやな。これからどないすんねんてな…、まぁ~、どうしようもなくなったら、また俺を頼ったったらええねん、そやろ?…」
 これ以上のう侮辱があろうか。俺はただピエロ役を演じているだけなのか。今回の件で俺は漁師と和良まで敵に回してしまったのだ。一体俺にどうしろというのだ。これが願っていた事の結因で、俺が思い描いていた美なるパラノイアなのか。
 僕を失った和良が単騎走る単車から零れ落ちる、遠慮がちな排気音が木霊すこの港に、他意なく厳然として訪れる青い夜闇が、侑司の心を更に掻き乱すのだった。

 
 
 


 










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