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血肉となったもの

身に思い知らさる経験や言葉も、食べて物が血肉となるように自分自身のものとなって無ければ意味がない。
自分自身のもの、それは特に自分に言い聞かせたり、規則をわざわざ意識しなくても自由自在に使えること言う事。

そうでないものは本当に私の力と関係があることだろうか?

例えば徹底して筋トレしたとして、それでいて筋肉を制御できないものはその筋肉を使っているだろうか?使われているのだろうか?
貴方はどう考えたか、使われていると思わないだろうか。
筋肉に限らず持っていても、私のものとして使えない事は私のものではない。

血肉にならないこと、それは持っているだけだ。
木を切る鋸は私の所有ではあっても、使いこなして木を切り落とせずには意味がない。
持っている事にも意味はあるからそれは否定しないにしても、使えなければ全ては持っているだけだ。
その鋸を使う事自体は多くの人ができても、有効に作用するかは貴方自身の問題なのだ。

noteのような記事で何か良さそうなことを見ても行動して確かめなければ「知っている」に過ぎない。身に染み付かなければそういう事だ。
かといって脳死行動もいけないから動いては考えながら苦難し、判断し、どうしても自分に不足しているときは人から学ぶ。動き方も修正を加え最後に自分に合ったものを血肉とする。

高い服を持っていたとして、それに見合ったその服を有効に活用できるかできないかとかも身近ないい例だ。
人はどうしても、背伸びして努力する。
背伸びを否定するわけではない。背伸びしようとする事、それ自体は健康な精神だ。
背伸びして一瞬、「手に入った」と思ったところでの力はまだ自らの力ではない。
或いは身に付きにくい事は見せかけでいいという心理が働き、浅い程度で止まる。

その過程も重要ではあるが、規則などに従って自動人形のように動いてるうちは自分との感覚に乖離が生じる。
当然のように扱えて、その働きを自らで止めることが出来る。

簡単なことを難しく書き連ねたが、そういった血肉になることだけが本当の貴方の力だ。
それは本当に貴方に関係あることなのだから。

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