見出し画像

連載小説 ビター・スウィート・ベルセウス 4

 春井の言っていた通り、賢志は常連客だった。
 毎日、来るのだ。学校が終わったら、教科書などでパンパンになった大きなバックパックを背負って、毎日『ベルセウス』にやってくる。そして、カフェラテを頼む。あるときは宿題をしているようだったし、あるときはただカフェラテを飲みながらじっとしているようだった。何を考えているかは、いまいちわからない。時折、頬杖をついて窓の外を眺めるときの、彼の横顔と指のラインが好きで、ちらちらと盗み見した。
 ある日、いつものように賢志がカフェラテを注文した。春井は、カウンターに咲夜を呼び寄せて、にっこりと邪気なく微笑むと、
「今日は木崎くんが作ってみる?」
「ええっ!」
「犬飼くん」
 驚く咲夜を無視して、春井はカウンター近くの席で宿題をしているらしい賢志に話しかける。
「はい」
「木崎くん、うちに来てからずっとラテアートを練習しているんだ。どうかな? 木崎くんの実験台第一号になってくれないかな?」
「いいですよ」
 なんの迷いもなく快諾されてしまって、いよいよ咲夜は逃げ場がなくなったのを感じる。
 春井の言っているのは、正しい。ここに勤め始めてから、まずは基本ができるようになろうと、春井の店でよく出るブラックコーヒー、サイフォン、ネル、ドリップの三種類を学んだ。こちらは、そこまで苦労せず、豆の量やドリップする際の注意点などを覚えられていたので、春井は次はラテアートに挑戦してみようと提案した。
 ラテアート。ネットで画像検索すれば、オーソドックスなハートやリーフ以外にも、フォームで可愛らしい動物を象ったものや、絵画のような凝ったものまで様々なものが出てくる。それに対して、今まではなんとも思っていなかったが、いざ自分がそれができるようになるのではないかと思ったら、やっぱりちょっとワクワクした。
 そこまでは、良かった。
 難しかったのだ。咲夜は、自分のことを器用な方だと思っていたし、手先の細かい作業も得意だと自負していた。なのに、なぜかラテアートだけは失敗続きで、正直、ラテアートに挑戦して一週間くらいは、毎日落ち込んで眠りについた。そんなに苦戦するとは思わなかったなあという苦笑まじり、同情まじりの春井の独り言を耳にして、さらに落ち込んだ。ようやく形らしきものになってきたのが、ほんの数日前だ。到底、人様に披露できるようなものではないし、ましてや、商品として提供できる代物ではない。
「いや、でも、春井さん」
 自信なさげに、ニコニコ顔の春井のシャツの袖を引っ張った。
「大丈夫、大丈夫。味は、とってもおいしいんだから。ラテアートを完璧にしなくちゃと思わず、目の前にいるお客さんに、おいしいラテを作ろう、それだけに集中してやってごらん。大丈夫だから。あ、もしかして、犬飼くんが怒ったり不機嫌になったりすると思ってる? それはないよ。僕が保証する」
「それは、心配してないですけど……」
「そう。なら、なんの不安もないじゃない。ほら、君がラテを作っている間、僕がほかの仕事を引き受けたから、安心してやってきてごらん」
 押しは強くはないが、噛んで含めるような春井の物言いに、咲夜はついに反論する言葉を失い、とぼとぼとラテ作りに取り掛かった。ちらりと、賢志の方を見ると、彼はこちらをじっと注視していた。
「あまり期待しないでね」
 ついつい、消極的なことを口走ってしまう。賢志は、咲夜の発言を受けて、ふっと口元をほころばせると、
「実験台になれて、光栄です」
とだけ言った。そして、すぐに口元に浮かんだはずの笑みを消し去ってしまい、手元の宿題に目を向ける。
 な、なんだ、いまのは。
 ラテ作り、ラテアート、初めての商品としての自分の作品提供、などの重圧とストレスが吹っ飛ぶような笑みだった。いつも笑わない人間の、ふとした笑みこそ破壊力が恐ろしい。
 これで高校一年生だろ? 末恐ろしいな。
 手の甲を、気付かれないように頬にやる。大丈夫、熱くはなっていない。
 まずは、エスプレッソだ。賢志が好きな、深煎りの豆を細挽きにする。それをバスケットに入れて、粉の表面をタンバーで押してならす。粉がバスケットの中で平らになるようにダンピングをしたら、抽出。抽出時間は短いけれど、そのあいだにフォームドミルクの用意を始める。スチームを空ぶかしして、ピッチャーに入れた冷たい牛乳に空気を入れ込むようにしてスチームノズルの先端を入れる。掌でピッチャーの温度を確認し、まろやかなミルクができたら、ラテ用のカップをカウンターに置く。エスプレッソをカップに注ぎ、その上からミルクを注ぎ入れる。
 高い位置から、高い位置から……。
 呪文のように唱えながら、ミルクをエスプレッソの下にくぐらせるイメージで入れる。
 ここからだ。
 ピッチャーを徐々にカップに近づけ、ミルクの泡を表面に浮かべていく。表面に白い円ができるように、ミルクの落下地点をコントロールする。最後は、ピッチャーから出るミルクが細い線のようになるようにして、円を一直線に横切れば、ハートが……。
「あっ」
 あともう少し、というところで手元が狂った。いや、ピッチャーを持つ手が震えてしまった。一直線に横切るはずだった線は、ジグザグになってしまい、ハートの輪郭がいびつに歪んでしまう。
 ラテとしてはおいしいと思う。香りも良い。ミルクの温度もとても良いと思う。でも、ラテアートとしては失敗作だ。
 これを本当に賢志に出すのか? 春井は、常連客の一人と談笑している。まだ、咲夜がラテを作り終えたことに気付いていない。破棄してしまうなら、今しかない。
「おいしそうな匂いですね」
 低い声がふいに間近で聞こえて、咲夜は肩を震わせ、その拍子にピッチャーに残っていたミルクがどぼりとカップに落ちてしまう。かろうじてハートの片鱗を見せていたのが、今のですっかり消え去ってしまった。これでは、ハートの失敗作ですらない。ただの失敗作だ。
「あ、これ、は」
「いただきます」
 咲夜が言い訳を考える前に、ひょいっと腕が伸びてくる。大きな手だった。そう、ラフマニノフとかブラームスが似合うような、そういう手。
 あっけにとられている間に、賢志はコーヒーカップを手に、席に戻ってしまう。あわてて彼の席へと駆け付けた。
 大きな体躯で鎮座した賢志は、できそこないのラテのカップを手に取って、咲夜が止める間もなく口をつけてしまった。
「ああっ」
 がっくりと肩を落として、伸ばした腕が虚空をつかむ。咲夜の一連の動作を横目で見ながら、賢志はまるで慌てずに、
「本当に、作る人が違うと違う味になるんですね。春井さんの作るラテとは違う味だけど、すごくおいしいです」
と丁寧に感想を述べるものだから、咲夜はいよいよいたたまれなくなって、賢志のテーブル脇にしゃがみ込み、腕で顔を隠した。
「まるで、演奏みたいだ」
「……え?」
 想像していなかった単語が聞こえて、咲夜は顔を上げてしまい、賢志と目が合ってしまう。そのとき、咲夜の瞳にはどういった感情が表れていたものか、賢志は少し戸惑ったように眉根を寄せた。
「俺、変なこと言いました?」
「いや、変、じゃないけど。演奏って、音楽とかの?」
「はい」
「犬飼くん、音楽好きなの?」
「はい」
「ジャズとか?」
 似合う。薄暗い部屋の中、ラテをゆっくり飲みながらジャズに耳を傾ける賢志を想像して、そう思った。
「いえ。クラシックです」
「クラシック……」
「はい。ここに初めて入ったのは偶然なんですけど、その時にかかっていた音楽がメンデルスゾーンのピアノトリオで。それで、ああ、ここ良いなって思って」
「メンデルスゾーン……」
 賢志の言葉をオウム返しするだけになってしまった咲夜だが、頭の中はとてつもなく忙しかった。脳内が多忙すぎて、処理出来ていないといった方が正しい。
「クラシックの楽曲って、もう何百年もいろんな人が演奏してますけど、演奏者が変わると音楽も変わるんですよ。それが、コーヒーに似てるなって思って」
「そう……」
 ああ、どうしよう。好みのタイプだと思っていたけれど、いや、もちろん、彼はあまりにも若いし、未成年だし、未成年とどうこうなろうなんて思ってもいないから、どんなにタイプでも、彼とこれから先なにかが起こるなんてことはないんだけど、でも、そうか。クラシックが好きなのか。ますます、距離を置かなければならないな。
「今日の曲も、好きですよ」
「え?」
「グリーグの叙情小曲ですよね。ちょっとマイナーですけど、俺はすごく好きです。春井さん、音楽のセンスもさすがですよね」
「あー……」
 いつもの賢志と比べると、饒舌と言っていいほどだ。相当、クラシック音楽が好きなのだろう。そんな賢志を目の前に、知らぬ存ぜぬを通しきれるほど、咲夜は百戦錬磨の大人ではなかった。立ち上がって片手を額にやる。次の言葉を待っている賢志に、
「僕なんだ」
「え?」
「ここに勤め始めてから、この店のBGMを選んでいるの、僕なんだ」
「そうなんですか?」
「そう」
「木崎さんも、グリーグお好きなんですか?」
「好きっていうか……」
 好きだ。大好きだ。ピアノ協奏曲も好きだし、オーケストラも好きだし、叙情小曲集は全部大好きだ。
「詳しいんですね」
「まあ、ほどほどにね」
言葉尻を濁したのを、これ以上雑談したくない、と取られたらしい。賢志ははっと目をみはると、頭を下げた。
「すいません。仕事中なのに、関係ない話ばっかりして」
「いや、そういうことじゃないから。大丈夫。こっちこそ、気を遣わせてごめんね。犬飼くんこそ、宿題の途中だったんじゃないの?」
「あ、はい。ちょっと苦戦してて」
「そうなの? 科目は?」
「英語です」
「英語か。英語だったら、ちょっと助けてあげられるかもよ」
「本当ですか?」
 パッと顔を輝かせる賢志を見て、素直に、可愛いなと思ってしまう。いやいや、危ない。そんな風に思うと、泥沼にはまってしまうかもしれない。いやいや、そんなことになるわけがない。相手は未成年だぞ。
 賢志の笑顔を見ながら、咲夜の脳内では慌ただしく議論が行われる。
「これなんですけど」
 咲夜の立っている位置から見やすいように問題集の向きを変えて、苦戦しているという問題を指さした。長い指。関節はしっかりとしているが、指の印象はあまりゴツゴツしていない。爪も、きれいに切りそろえられていた。雰囲気的に、剣道部とか弓道部のような、硬派で落ち着いた部活をしているイメージだったから、少し意外だった。
 そういえば、と思う。部活をしているんだったら、こんな時間に喫茶店に寄っている時間はないんじゃないだろうか。
「犬飼くんてさ」
 なぜか気になったので、思い切って尋ねてみることにした。
「部活とかしてないの?」
「あ、はい。してないです」
「そうなんだ」
「意外、ですか?」
「え?」
「そういう顔、されてるから」
「あ、うん。ちょっと。なんだろ、剣道部とかに長年所属してそうな雰囲気だなって思ってたから」
「それ、よく言われます」
そう言って、賢志は穏やかに笑った。控えめに見える白い歯がまぶしい。
「やっぱり?」
 おどけてみせると、賢志はやおら真剣な顔つきになり、
「部活やってると、時間がないんで」
「時間?」
「ほかにやりたいことが、あるんです。幸いうちは進学校なので、部活やらなくても認められるんです。これが他の高校だったら、部活やらないといけなかったから、キツかったかもしれないですね」
「そうなんだ」
 部活の時間をこうして喫茶店に来ていることは、どう考えれば良いのだろう? 時間が惜しいのであれば、放課後、すぐに帰宅して家で宿題をすれば良いのではないのだろうか。
 少し気にはなったものの、今そこまで首を突っ込むのは得策ではないと思い、咲夜はあっさりと引き下がった。代わりに、英語の問題に目を向ける。英単語がバラバラに書かれているものの順番を変えて、文章に戻す問題だった。
「えっとね、これは前置詞が違ってるから、そのあとの文章がおかしくなっちゃっただけだね」
 ジェスチャーで賢志の手にあるシャーペンを借りても良いかと聞く。手渡されたもので、該当する前置詞を書き入れる。
「この動詞、いろんな前置詞をペアになれるからややこしいよね。これじゃなくて、こっちの前置詞にすると、勝手にほかの文章も出来上がってくるよ」
「なるほど。前置詞、たしかにちょっと苦手です」
「うん。前置詞って日本語で言うてにをはみたいなものだから、ネイティブじゃないと、感覚的にはわからないし、もう、一つ一つ覚えていくしかないよね」
「わかりました」
 ありがとうございましたと頭を下げる賢志に、シャーペンを返し、問題集の向きを戻す。咲夜の手元をじっと見ていた賢志が、ふいに、
「木崎さんって、指きれいですよね」
「え?」
「あ、すいません。別に、変な意味とかじゃなくて、きれいだなって思って」
「いや、あ、そんな、変な意味とかは思ってないけど。えっと、ありがとう」
「楽器とか、弾かれたりするんですか?」
 純粋無垢な賢志の質問は、しかし、鉛の塊のように咲夜の喉につかえた。うまく言葉が出ない。自然な発声方法がわからない。自然な笑顔がわからない。
「ううん、楽器なんて全然だよ」
「そうですか」
 賢志に微笑みかけながら、急に吹き出した冷たい汗が背中をつたっていくのを感じていた。今晩は、久しぶりにワインを開けよう。素面では眠れない気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?