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連載小説 ビター・スウィート・ベルセウス 5

 あの日から、咲夜は賢志専属のラテ職人にあてがわれたようだった。というよりかは、賢志が咲夜の実験用モルモットとして店に通うことを承諾したというべきか。
 味はそこまで不味くはないと自負しつつも、一向に上達しない不出来なラテアートを連日見ている咲夜は、高校生の賢志からお金を巻き上げているような気持ちになってしまって、いたたまれない。

「春井さん。犬飼くんのことなんですけど」

「どうしたの?」

「彼、高校生じゃないですか。しかも、去年までは中学生だった」

「そうだね」

「そんな彼からお金を巻き上げて、あんな下手くそなラテアート、ラテアートと呼んで良いかも甚だ怪しいラテを出すっていうのに、抵抗があるんですけど……」

「うーん」

 磨いていたカップをカウンターに置いて、春井は体ごと咲夜に向き直った。目尻の皺は相変わらず柔和だけれど、瞳の奥に静かに燃える炎を携えて言う。

「木崎くんの気持ちもわからないではないけれどね。でも、君も、僕も、これを仕事にしようと思うなら、お金が発生しても構わない、いや、これで金額分を受け取っても充分だと思えるようにならないと。タダでも構わないと思うことは、まるで美徳のように思われるけど、僕は違うと思うんだ。作ったものに、誇りを持たないと。そして、誇りを持てるように、精進していかないと」

 それもそうだ、と咲夜は思った。むしろ、なぜそんな簡単なことに気が付かなかったのだろうと、歯がゆい気持ちと、春井にこんなことを言わせてしまったことへの恥ずかしさがこみ上げる。

「甘えてましたね、僕」

 やや間があって、咲夜はようやくそんな言葉を口にした。春井は、とっくにカップ磨きに視線を戻していて、咲夜の独白のようなレスポンスに、いたずらっ子のような微笑みを浮かべた。

「犬飼くん、甘えさせてくれるタイプだからね」

「ちょ、や、やめてくださいよ。まるで僕が、犬飼くんだから甘えてるみたいな」

「違うの? だって木崎くん、犬飼くんのこと好きでしょう? ほかの常連さんとは実に如才なく話しているのに、犬飼くんと話すときはガードが降りるでしょう?」

 さすが、喫茶店のマスターを何年もしているだけはある。春井の観察眼に、咲夜は内心舌を巻いた。

 そう、その通りなのだ。咲夜は、いわゆる外面の良い人間で、幼いころから相手がどういう対応を自分に求めているかを嗅ぎ分ける能力に長けていた。そのため、相手の求める自分像を、元々の自分の延長線上になるように、つまり過度のギャップを生まない程度に自分の性格を変化させてきた。だから、いわゆる人間関係のトラブルは今までほとんどなかったし、これからもそうあってほしいと思っている。

 ただし、それは他人だと認定した相手への対応であって、心情的に踏み込んだ相手には、そういった冷静な判断が下せなくなる。

 賢志と話しているときにガードが降りているというのは、まさにその通りで、あの、何も繕わない、だからこそ実直で誠実な性格がにじみ出るような物言いに接していると、ひねくれた咲夜の心を癒してくれるというか、いつのまにか他者用の仮面が外されていると感じる。

「好きっていうか、毎日毎日、僕のラテアート修行に付き合ってくれて、いいこだなって思ってるだけですよ」

 鏡を見なくてもわかる。今のは、完璧な微笑みだったはずだ。
 咲夜のキラースマイルを見て、春井は、くすぐられたみたいに目を細めて笑った。

「そういうことにしておこうかな」

 そこで会話が途切れてしまう。春井は、寡黙でもなければ話好きでもないタイプで、こんな風に自然に会話が途切れてしまえば、咲夜がもう一度、話題を口にしない限りは春井の方から話しかけてくることはない。
 それに安堵を覚えながら、咲夜は、上達の兆しを見せない不格好なラテアートのことを考えていた。

 その日の閉店後、店の片づけをしながら、咲夜は思い切って切り出してみた。

「あの、春井さん」

「ん?」

「もし、春井さんさえ許してくださったらなんですけど」

「いいよ」

「僕、まだ何も言ってませんよ?」

「うん、でも、いいよ。木崎くんが、そんな目をするのは、うちに来てから初めてだからね。そういう目で決めたことを、僕は無下にしたくないから」

「う……」

 なんだか、何もかもが春井にはお見通しのようで、恥ずかしい。しかし、恥ずかしさに負けてしまっては、ここから成長できない。

「ラテアート、もうちょっと練習したいんです。たぶん、単純に練習量が足りてないんだと思うんです」

「それは、僕もそう思うよ。やっぱり、営業中は、ラテアートばかりに集中しているわけにもいかないもんね」

「はい。なので、もしよかったら、開店前か閉店後……」

「だったら、閉店後かな。帰り、遅くなっても大丈夫? 僕がいない方が練習に集中できると思うから、木崎くんが戸締りしてくれる?」

「はい、それは、もちろん」

 そういうこともあるだろうと思って、勤務地近くに越してきたのだ。問題があるわけがない。

 咲夜の答えに春井は満足そうにうなずくと、ああ、と思いだしたように言った。

「もしかしたら、閉店後、犬飼くんがここに少しだけいたがるかもしれない」

「犬飼くんが、ですか?」

「そう。彼、たしか、ここで宿題や勉強を済ませて、家に帰る前に寄るところがあるんだ。その場所に行ける時間になるまで、ちょっと時間をつぶさないといけない日があるって言ってたなと思って。そのときに、冗談で、うちがもう少し遅くまで開いていたらねって言ってたんだ」

「そう、ですか」

 閉店後、春井もいない喫茶店で、賢志と二人きり。

 いやいやいやいや! 何を考えた、今! だめだから! ていうか、ありえないから!

 すぐに欲望にまみれた想像をしだした頭を、ぶるぶると振って不埒な考えを振り払う。ありえない。そうだ。ありえない。そんなこと、天地がひっくり返っても起こらない。

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