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生き切りたい。『終末のフール』(伊坂幸太郎)を読んで。

HAKOMACHI  一日一冊 1/31冊目


あなたの人生の一冊を選ぶとしたら?

人生について、生きることについて姿勢が正される。

その本を読んでいたのは、駒沢公園の中にある駒沢競技場。
僕は中学2年生か3年生で、陸上部の大会でそこに来ていました。
陸上部の大会は、個人戦を単発で応援することが続きます。
自分の出番が、朝で早々に終わると、仲間の応援まで暇な時間が発生します。
仲間は、自主練をしたり、先生に隠れてゲームをしたり、駄弁ったりしています。
僕はその輪に入ることもありましたが、好きな本を読み進める時間に充てていることも多くありました。

夏の暑い日、観客席の後ろの方の席で、影になって涼しいところで、横になって、この本を読んでいました。
本の設定で提示されている未来や過去の設定はとてつもなくリアルで、残酷なのに、そこに生きる人はたくましく、前向きで、明るかった。
今思うと、僕はそんな生き方をする人をかっこいい、と思ったのでしょう。
夏の休日の昼下がりの、平和な空気と、その小説の雰囲気がやけにマッチしていて、それでいて明示されていることはかなり重くて、誰に会っても、僕にとって最高の一冊として紹介します。

『終末のフール』 伊坂幸太郎

不動の作家は伊坂幸太郎さん

僕がその本に出会ったのは、実際に手に取る数年前、確かまだ小学生で仙台に住んでいた頃だったと記憶しています。
当時仙台に住んでいた僕は、仙台在住の作家・伊坂幸太郎さんの作品が映像化するタイミングで小説にハマりました。
仙台を舞台にした『アヒルと鴨のコインロッカー』が映画化し、その奇抜な題名と、見たことのない映画の雰囲気に、僕は目を奪われたことを覚えています。
小説でその面白さを体感したい、と手に取った『グラスホッパー』にどハマりし、
『死神の精度』で短編の面白さに気づきます。
そして、映画でも本でも泣いてしまったのは、伊坂幸太郎さんが山本周五郎賞を受賞した、『ゴールデンスランバー』でした。首相暗殺の濡れ衣を着せられた主人公、逃げ切る中で、全世界が敵に見えるそんな中で、わずかながら自分をなぜか信じてくれる何人かの人たちの言葉、それが、本当に心を締め付けるのです。

最初は一目惚れ以上、ジャケ買い未満

そんな伊坂さんの個々の作品の良さは、嫌でも今後描くことになるとして、、、
今回おすすめの『終末のフール』はそんな時、「装丁が一番いい本」としての認識でした。
本に関しても見た目から入るタイプです。
紙でつくられた街の模型、住宅街が舞台の本作に寄せて選ばれたのでしょうか。
マスキングテープで、タイトルが表現されています。
今思うと、なんでだろ、と思うくらい。その時はこの装丁に心奪われていました。

でも当時小学生の僕は、単行本はなかなか高くて買えないのでした。
なので、文庫になったら買おう、そう思って1年近く待ち、そしてついに文庫化したその時、なんと表紙のデザインは全く違うものに変わっていたのでした。
いや、絶対前のほうがよかったよ!?
そんなふうに思いながらも、読めば同じ、と文庫本のその本を手に取ったのでした。

あと3年で地球が滅びるとしたら

あなたはどんな生き方をしますか?

簡単にテーマ設定をするなら、そういう物語です。
短編集ですが全ての作品が同じ設定の世界、しかも同じ街が舞台になっていて、主人公たちが物語を行き来したり、過去が交錯したりもします。
8年前に地球滅亡が知らされ、5年間でひと通り人間が騒ぎ終わって、滅亡に向かう平和な日常が繰り広げられる中、そこに生きる人たちの生活が描かれます。

3年後に地球が滅びることになったら、
・あなたは大好きなスポーツや趣味に打ち込みますか、それとも時間を費やすのをやめますか?
・あなたは仕事を続けますか?それとも辞めますか?それとも新しいことを始めますか?
・成長するための一歩を踏み出すでしょうか?新たな恋をするでしょうか?

明日死ぬとしてもリンゴを植えるルターのように

僕はこの作品の短編の中で、いつも読み返す作品があります。
そこに登場する人物の考えで、常に生きていたいと思うからです。
この作品は、あえて「3年後に地球が滅亡する」という設定にしてわかりやすくしていますが、でも程度の差こそあれ、僕たちの地球も世界も、設定は変わらない、と思うのです。

この地球がいつ滅びるかは分からない。3年後に滅びない保証なんて、どこにもないのです。もしくは、この小説と全く同じ状態なのに、世界政府がそれを隠しているだけかもしれない。

地球が滅びなくたって、自分の命がいつまでかなんて、分からない。
その日は突然訪れる。
なのに僕らは、大会はまだ先だと言って、最後の一本で力を抜く。
テストはまだ3ヶ月後だと言って、目の前の授業から目を背け、宿題に手をつけない。
まだ、一緒にいられると言って、大事な思いを伝えない。
今が人生最後の日だったら、選ぶことは変わるんじゃないだろうか?

というか、期限は少なからずあるんだから、数が多いから麻痺しているだけで30000日も、1000日も、300日も、30日も3日も、限りがある点においては一緒。その中の一つ一つ、一瞬一瞬を大切にしないなら、時間もきっと自分を大切にしない。

というか、明日死ぬとして生き方が変わるでしょうか?
明日死ぬことが分かって、だから両親と恋人と親友に急いで会いに行くのはわかりますが、でも逆に死ぬことがなかったら、またいつか先に訪れる死の瞬間まで、大切な人と過ごすことを後回しにするのでしょうか?
明日死ぬとなったら、成長はしなくていいのでしょうか?
明日の仕事、将来の結婚、子育て、それぞれが忙しいから未来への準備は時間ができたらやる、と言って、もう働くにも遊びにも制限のかかった頃の年の自分のために、せっせと投資をしている。今、それができる自分であったら、準備ができた状態で過ごせるとしたら、どんなに良いでしょうか。

明日世界が終わるとしても、リンゴの種を植えると言っていたマルティン・ルターのように、やるべきことを淡々と。
がむしゃらに、できるだけまっすぐ。
今この状態で、化石になったとしても、胸を張れることを。
目指している状態で、生き切りたい、人生のゴール。






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