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読書会記録 死は生の一部として存在する?

こんにちは。
今日は先日の読書会で話されたテーマについて、書いていきます。

死は生の対極ではなく、生の一部として存在する

村上春樹の「ノルウェイの森」に登場するテーマの一つです。
みなさんはどう思いますか?そんな質問を受け、思わず天を仰ぎました。

その間、いろんな考えが頭をよぎっていきます。
死を思え、といえば、メメントモリ。
自分を無くす、というテーマについて書いた星野源さんのエッセイ。
死んでるみたいに生きたくない、という名言を残した架空の偉人ガブリエル・カッソを信奉する岩西というキャラを描いた伊坂幸太郎さんの『グラスホッパー』。

どれが答えにぴたりとハマるか。

まず浮かんだのは、祖父のお葬式でした。
1年前に開かれた告別式で、僕は、久しぶりに親戚と顔を合わせました。
小さいころに遊んでもらっていた、はとこのお兄ちゃん2人とも再会し、
「おじさんとこんな場所行ったよね」と話す彼らとの思い出にしばしの間触れるなどしました。
そんな話をしていたら、今度ご飯でも行こうよ、今何しているの?と話が進み、
また後日食事をすることに。
祖父の死は寂しかったですが、その死をきっかけにまたかつて仲の良かった人とまた再会ができる。「死」を通して「生」がまた紡がれていく、そんな感覚でした。

死は、生きる人のためにある

死が生の対極にはなく、その一部だとしたら、それは一つの死が、新たな生の誕生につながっている、という自然の営みについて触れることが一つヒントになるかもしれません。

先日、代官山に新たにできたTENOHAという施設で、
サーキュラーエコノミー、持続的な暮らしに関する対談を聞いてきました。

その中で聞いた森がつくられる流れというのがあって、
1、まず、何もない大地にどこからかきた種子が芽生え、1年草の草原ができる。
  1年が経ち、1年草が枯れ、土に還る。またそこに1年草が育つ。
2、1年草の枯れ草が積み重なっていき大地に栄養が増え、
  今度はそこに多年草が育つ。
3、多年草が枯れて積み重なって、さらに大地に栄養が増えると、
  低木の植物が育つ。
4、低木の枯れ木が積み重なって肥沃になった大地には、
  高木が育ち、森になっていく。
というものです。

理科の時間で習っていたかもしれないような一見すると当たり前の流れですが、
草の死が砂に栄養を与え、土にし、さらに大きな草や木を育てる土壌となっていく。まさに、死が生の一部になっている、そんなふうに感じたのでした。 

法事は残されて生きる人のために、死者のためという体で、開かれる

以前、ストーリーに関する記述で、とあるコミュニティに関する本のなかで、
法事は死者のためではなく、生きる人のための儀式だ、という物語を読んで、心動かされたことを記録しました。

身近な人を失った時、人は半身を失うほどの痛みを経験します。
時には気丈に振る舞ったり、自分だけは平気なふりをしたりしていても、
そのダメージは深く、心の底に刻まれているのです。
それほどまでに、死は、正面から向き合うと、重く、虚しいものです。

だからこそ、それから目を逸らすために答案を
埋める必要がありました。
だからこそ、それを紛らわすほどの煩わしい群衆の大挙が必要とされました。
だからこそ、それすら数週間にわたって忘れてしまうほどのタスクが要りました。
四十九日にわたる儀式とそれに付随するタスクや親戚の往来は、いやでも遺族を死から遠ざけ、営みに没頭させ、生者に塗れさせる。
そうすることで、彼らが日常に戻っていくのを助ける効用があるというのです。

確かに、何もやることがなく死のことばかりを考えていたら精神衛生上おかしくなるのは必至ですし、何か作業をしていれば気も紛れて、時間も過ぎ、わずかながら達成感も味わいます。そんな姿を、仲の良い親戚たちが定期的に見守る。

ああ、私にもまだ自分を支えてくれる人たちがいる。大事な人の死を
惜しみ、悼む人がこんなにもいる。つまり自分が死んだ時にも同じことが起きる、それだけ自分の生は切望されている。

そう感じることで、死の連鎖は生の連鎖につながっていく。法事は、実はそんな儀式だったのではないかと。

ですが、どんな時代にも、素直ではない人、うまく助けを求められない人がいるものです。
自分は大丈夫、と気丈に振る舞う人もいれば。
自分は大丈夫、どうせならと自分も死に向かう人もいるかもしれない。
きっと、いた。

だからこそ、残された生者のための祭りに、死者の霊を弔うため、という優しい大義名分が付けられた。

自分は大丈夫、だけど死んでいった家族を弔うために、法事をやらなければ。
自分は大丈夫、だけど一族の一員としてしきたりを守らなければ。
自分は大丈夫、だけど一般常識として、法事は開かなければ。

そうして、「周りが言うから仕方がない」と言う形で、心置きなく、遺族たちは自分の身を守るための儀式を開催していくことができる。

死は生の対極にある現象、と言うのは事実そうかもしれない。
ですが、実社会では、人々はあらゆる文化や風習を使って、死によって生が支配されることがないよう、死を生に取り込んできた、と言えるのかもしれません。



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