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【深掘り考察】映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』が描くアメリカの黒歴史とは?

アメリカ映画界を代表する巨匠マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオが6度目のタッグを組んだ『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。現在80歳ながら老いを感じさせないスコセッシの渾身の一撃であり、俳優ディカプリオにとってもキャリア最高にして最低のろくでなしを熱演した必見の作品である。

もともとこの企画をスコセッシ監督に持ち込んだのはレオナルド・ディカプリオだった。ディカプリオは幾度となくスコセッシと組んでいるが、『アビエイター』(2004年)や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013年)もディカプリオ側からアプローチし、32歳年長の大先輩を巻き込んで実現させた映画だった。

ディカプリオは2016年に、インパラティブ・エンタテインメントと組んでデイヴィッド・グランが著した原作本『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』(早川書房刊、文庫本のタイトルは『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生』)の映画化権を出版前に獲得していた。同書は約100年前にネイティブ・アメリカン居留地で起きた連続殺人の真相に、背後にある組織的犯罪や根深い人種差別、そしてFBIの前身である『捜査局』の裏事情を絡めて迫ったものだった。

スコセッシもたちまち原作本に夢中になり、監督を承諾。しかしスコセッシの前作『アイリッシュマン』(2019年)の撮影が先行したり、コロナ禍に見舞われたりしたことで、かなりの長期間に渡って脚本を練り上げることになった。

スコセッシと脚本家のエリック・ロスは、ネイティブ・アメリカンのオーセージ族に大量の犠牲者を出した連続殺人を描くにあたり、真犯人を割り出した捜査官トム・ホワイトを主人公にした脚本を書いていた。当時、オーセージ族は居留地から噴出する豊かな石油資源によって「世界一裕福なひとびと」と呼ばれ、彼らの財産や利権を目当てに白人たちが押し寄せ、さまざまな問題を引き起こしていた。そんな中、次々と不審死や殺人事件が発生し、事件解決のために首都ワシントンDCから派遣されたのがトム・ホワイトだったのだ。

ディカプリオは当初はトム・ホワイトを演じる予定だったが、むしろ加害者側にいた人物、アーネスト・バークハートという人物を演じることに興味を示したという。アーネストは19歳の時に叔父のウィリアム・キング・ヘイルという地元の名士を頼ってオーセージ居留地に移り住んだ白人男性で、オーセージ族の女性モリー・カイルと結婚していた。実は事件の主犯格は叔父のヘイルであり、ヘイルはモリーの近親を殺害することで、遺産と石油の受益権がモリーとアーネストに集まるように画策。アーネストも陰謀の片棒を担いでいたのだが、裁判では証人として叔父を告発する側に回ったのである。

スコセッシもまた、捜査側を主人公にした脚本が「事件を外側からしか描けていない」ことに懸念をいだいていた。そこで原作では膨大なページ数を与えられているトム・ホワイトのエピソードを極限まで削り、叔父ヘイルと妻モリーや子供たちの間で板挟みになるアーネストを中心に据える方針に変えた。モリー役に抜擢されたリリー・グラッドストーンも、オーディションの後に脚本が劇的に変わり、アーネストとモリーの夫婦の物語になっていたと証言している。

この変更によって、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は圧倒的にスコセッシらしい映画になった。ホワイト捜査官が主人公であれば、ただ難事件を解決するミステリーになっていただろう。しかしアーネストとモリーが中心になることで、スコセッシが長いキャリアを通じて描き続けてきた、善悪では計り知れない人間の弱さや葛藤を暴き出す物語になったのだ。

スコセッシが作る映画はどれも、ハリウッド的な勧善懲悪からはほど遠い。登場人物たちはエゴや欲得や愚かさゆえに倫理の道を踏みはずし、近しい人を裏切り、自分自身をも裏切って、破滅したり落魄したりする。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のアーネストも、「悪事に加担していた男が、やがて良心に目覚めて叔父を告発する」という短絡的な成長譚には収まらない、矛盾だらけの人物として描かれている。

極論すると本作は、原作にあった謎解きの要素をほぼ完全に排除している。史実だから隠す必要がない、というのもあるが、オーセージ族からも尊敬を集めていたウィリアム・ヘイルが事件の主犯であり、甥のアーネストが共犯者であることを、映画の序盤から一切隠そうとしていないのだ。その結果、われわれはアーネストという人物の整合性のなさを、まるで生態観察のように目撃することになる。

新たに住み着いた町でモリーと出会い、恋に落ちる若者もアーネストなら、ヘイルの命令でモリーの妹夫婦を爆殺する犯罪者を探して回るのもアーネスト。スコセッシは、そこに心理的葛藤を見出して映画エモーショナルに盛り上げるよりも、矛盾に満ちたアーネストやヘイルの姿を淡々と映し続けるのである。

結果としてアーネスト・バークハートは、過去にディカプリオが演じたどんな役よりも、愚かで思慮が足りず、その場限りでウソをつく薄っぺらい人物になった。そしてディカプリオは、幼い頃から天才と賞されてきた演技力をこの役に注ぎ込み、200%のみっともない姿をスクリーンにさらけ出してみせるのである。

アーネストのみっともなさ、情けなさは、同調圧力に抵抗できない大衆心理や、状況次第で自己の尊厳すら蝕む心の弱さを象徴しているとも言える。おそらくヒロイックな活躍をするトム・ホワイトより、スコセッシには身近で親しみすら覚えるキャラクターだったろう。

実際、スコセッシの長編デビュー作『ドアをノックするのは誰?』(1967年)でハーヴェイ・カイテルが演じた主人公は、スコセッシ自身をモデルにした町のゴロツキだが、自尊心を取り繕うために恋人に対して最低最悪の失言をしてしまう。いま改めてアーネストの最後の場面と比べると、両者が驚くほど似た失敗をしでかしているのがわかる。スコセッシとは、なんと一貫性のある監督なのか。

ただし『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、アーネストの愚かさやウィリアム・ヘイルの尊大さが人種差別や歪んだ優越意識と結びつき、マイノリティへの搾取と虐殺を引き起こしたアメリカの黒歴史を浮かび上がらせる視線を有している。

「現実に起きた悲劇を内部から描く」というスコセッシの狙いについては、正直モリーよりも白人男性であるアーネストに力点が置かれたことで、決して十全には成し遂げられていない印象は残る。実際、作品に協力したオーセージ族の人たちも、完成した作品については賛否では片付けられない複雑な心境を表明している。それは、人間の弱さに惹きつけられてやまないスコセッシという作家の本領であり、また限界でもあるのだろう。いずれにせよ、徹底して個人の内面を掘り下げてきたスコセッシが、社会性を備えた巨匠へと成長したことを証明する作品であることは間違いない。

映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の原作、『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』(早川書房刊、文庫本のタイトルは『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生』)は、ジャーナリストのデイヴィッド・グランが100年前のオクラホマ州で起きたネイティブ・アメリカンの連続殺人事件を、10年以上を費やして調べ上げた執念のルポルタージュだ。

本書はいくつかの要素で構成されている。ネイティブ・アメリカンのオーセージ族居留地で次々と起きた殺人事件や怪死事件。発足したばかりの捜査局(FBIの前身)から派遣されたトム・ホワイト捜査官による捜査と裁判の顛末。事件の背景にあるネイティブ・アメリカンが辿った苦難の歴史。そして著者であるデイヴィッド・グランが100年前の事件を掘り下げることで明かされた、さらなる陰謀の存在……。

スコセッシ監督が、長大な原作本をオーセージ族の女性モリーとその夫アーネストを軸にして脚色したことはすでに述べた。原作ではトム・ホワイト捜査官の生い立ちや事件後の経歴、そして彼が所属したFBIが事件に及ぼした功罪についても多くのページを割いているが、映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』ではホワイトの出番は最小限に留められているし、早々に事件解決をアピールしたかったFBIが、アーネストの叔父ウィリアム・ヘイルを有罪にする以上の全貌解明を望まなかった事情も描かれていはいない。

しかし注意深く映画を観てみると、スコセッシがどれだけ丹念に、原作本が迫っていたオーセージ族の苦難の歴史や、権力者の横暴について触れていたのかがわかる。その例をいくつか紹介しておきたい。

まず映画の冒頭ではオーセージ族の儀式が描かれる。そこでは儀式用のパイプを埋葬し、先祖に対してオーセージ族の伝統が失われ、白人文化に侵食されていくことを嘆いている。実際、劇中ではリリー・グラッドストーンが演じたモリー・カイル(結婚後の姓はバークハート)は100%オーセージ族の血を引いているが、7歳だった1894年に強制的にカトリック系の寄宿学校に入れられている。家族や部族から引き離されて、キリスト教の価値観に基づいた英語教育を受けさせられたのだ。

当時のアメリカ政府のネイティブ・アメリカンへの施策は、彼らの土地を奪い、荒れた土地の居留地に押し込めるか、もしくは絶滅させることだった。代々暮らしたテリトリーを追われた彼らは狩りや戦士の風俗を禁じられ、白人文明に同化し、土着して農耕民になることを強いられた。オーセージ族が例外的に裕福になれたのは、居留地になる土地を事前に自分たちで購入し、偶然にも地下に豊富な石油資源が眠っていたおかげだった。しかし彼らの石油の受益権を狙う輩たちのせいで膨大な数の同胞が殺されたのだから、幸運だったと言い切るのは難しい。

冒頭のシーンでは、儀式を外から覗いている少女と少年の姿が映される。2人はモリーと、後に成長してウィリアム・ヘイルの友人となり、射殺死体で発見されることになるヘンリー・ローンだろう。劇中でも少しだけ触れられているが、モリーとヘンリーは部族の掟によって10代半ばで夫婦になった。あくまでも慣習上の婚姻で法的なものではなく、成長した2人は別の相手と結婚しているのだが、一瞬だけ映るまだあどけない2人はオーセージ族を襲う嵐の強烈さをまだ知らずにいるのである。

その冒頭と対称を為し、また映画全体を挟み込んでいるのが、スコセッシらしい俯瞰で撮影されている同心円状のダンスだ。これは毎年6月にオーセージ郡で開催されている『イン・ロン・スカ』というお祭りで、廃れていく伝統を継承し、共同体の結束を強める役割を果たしているのだという。

スコセッシは映画の最初にオーセージ族の伝統が失われる前兆を描き、“恐怖時代”と呼ばれた最悪の時期を描き、そしていまも自分たちのアイデンティティを失うまいと抗い続ける彼らの底力で映画を結んでいる。つまり、映画の本筋はアーネストとモリーの夫婦の間の裏切りの物語であり、叔父ウィリアム・ヘイルを画策した陰謀劇なのだが、映画全体を俯瞰してみれば、もっと壮大なスパンでオーセージ族の苦難とサバイバルを描いているのである。

劇中でウィリアム・ヘイルらが映画館で、タルサで起きた暴動のニュースを観ていることも重要な言及のひとつである。現在では『タルサ人種虐殺』と呼ばれているこの事件は、モリーの姉アナが殺されたのと同じ1921年に、オーセージ郡からほど近い都市タルサで起きた。

当時タルサのグリーンウッドという地区は、比較的裕福な黒人たちが集まり、非常に栄えた界隈になっていた。ところが黒人青年が白人女性に暴行を働いた容疑で逮捕されたことをきっかけに(真相は不明だが冤罪と言われている)抗議する黒人と白人住民が衝突。やがて白人は黒人の虐殺をはじめ、グリーンウッド地区は焼け野原になってしまった。

この事件は、オーセージ族の連続殺人事件と同様に、100年近くの間広く知られることがなく、近年になってようやく「黒人による暴動」ではなく「白人による虐殺」であると認定された。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の物語と直接結びつくものではないが、いかに白人が有色人種を見下し、差別や搾取が横行していたかという歴史的背景を示しているのだ。

また映画の終盤、ウィリアム・ヘイルとアーネストの裁判に判決が下され、モリーとアーネスト夫婦の間の溝の深さが露呈した後に、突然ラジオ番組の公開放送のシーンに移り変わる演出に驚いた観客も多いだろう。ラジオ番組は芸達者な俳優たちが次々と役を入れ替えながら(中でも白人からネイティブ・アメリカンまで多様な役を一人で演じ分けているのは人気ミュージシャンのジャック・ホワイト)、オーセージ族殺人事件の関係者のその後を伝えている。そして番組の最後にモリーの死亡記事を読み上げる番組プロデューサー役は、なんとスコセッシ監督その人が演じているのだ。

それまではまったくトーンが異なる場面だが、ラジオ番組の体裁を取っていることには理由がある。先に述べた通り、事件の捜査を命じた後のFBI長官J・エドガー・フーヴァーは、発足したばかりの捜査局の手柄をアピールするためにウィリアム・ヘイルの有罪判決をもって事件の捜査を打ち切った。グランの原作は、そのせいで他の多くの犠牲者のケースが放置されたままになったと指摘している。

そしてフーヴァーは、捜査局がいかに有能な組織であるかを喧伝するために、1931年から煙草のラッキーストライクが提供するラジオ番組と一緒にラジオドラマを共同制作。最初のシリーズのエピソードでオーセージ族殺人事件を扱っているのだ。つまり『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のラジオドラマのシーンは歴史の再現であり、劇中では大きく扱うことができなかったFBIとフーヴァー長官が事件を歪めた形で宣伝したことへの強烈な皮肉なのである。

さらにフーヴァーは1959年のハリウッド映画『連邦警察』の製作にも関わっている。同作は、いわば前述のラジオ番組の映画バージョンで、ジェームズ・ステュアート演じるFBI捜査官がさまざまな事件を解決していく武勇列伝だった。当時70代になっていたトム・ホワイトは映画でオーセージ事件が扱われると知り、フーヴァーに「すべてを知っているので喜んで情報を提供したい」と手紙を書き送ったが、映画に関与するチャンスは与えられなかったという。

実際『連邦警察』のオーセージ事件のくだりを観ると、ウィリアム・ヘイルと甥のアーネストは犯人として描かれているものの(ただし名前は変えられている)、ホワイト捜査官と部下たちの地道な捜査の成果ではなく、逮捕の決め手はFBIの科学捜査によって書類偽造に使われたタイプライターが特定できたおかげだと改変されている。フーヴァーはFBI(旧捜査局)の近代化に尽力した功績を宣伝するために、またもオーセージ事件を利用したのだ(しかもFBIを改革したカリスマ長官として出演までしている)。

これらの引用や含意のすべては、原作や史実の知識がないままに『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を一度観ただけでは読み取れないかも知れない。しかし映画を一度観ただけですべてを理解できるなんてことはありえないし、スコセッシは二度、三度の鑑賞に耐えられるように、非常に巧妙に原作にあった情報やメッセージ性を取り込んでいる。観れば観るほどに発見がある映画として、ぜひこの重層的な作品を何度でも味わっていただきたい。

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』公開中
製作総指揮・出演/レオナルド・ディカプリオ 原作/デヴィッド・グラン 製作・監督・脚本/マーティン・スコセッシ 脚本/エリック・ロス 出演/ロバート・デ・ニーロ、リリー・グラッドストーン、ジェシー・プレモンス、ジョン・リスゴー、ブレンダン・フレイザー 配給/東和ピクチャーズ
2023年/アメリカ/上映時間206分

文=村山章 text:Akira Murayama
画像提供 Apple / 映像提供 Apple

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