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母体になる私(妊娠15週/身体の変化)

かつては「もっと大きな胸だったら」「もっとセクシーな身体の質感だったら」と、努力しても手に入れられなさそうな誰かの肉体に憧れていた時もあったけれど、30歳の人妻ともなればいい加減に他人への羨望も薄れて、ありのままの自分の身体を受け入れてきた。と、いうのに、妊娠してすぐに身体が変わってしまった。

その変わりようと言ったら凄まじく、人間ってこんなスピードで変身できるんか?とちょっと感動するくらいであった。こんなポテンシャルがあるなんて知らなかったよ。それなら美容領域でもメキメキ変わって欲しいよと無駄な願いさえ湧いてしまう。

もともと痩せ型だったせいか、それとも筋肉がまったくないせいか、骨盤が前屈していたせいか。お腹が出るのは異様に早く、妊娠15週にしてウエストの締まった服は息苦しくてもう着られない(しかも、ウエストがキュッと締まった服ばかり持っているわたし…)。ぴったりとした服であればぽっこり出はじめたお腹に目が行き、だぶっとした服を着るとふんわり太ったようにしか見えない。

同様に、胸もあっという間に膨らんで持っていた下着がほとんど合わなくなった。「胸がでかくなるなんてラッキー!!!!」……な、わけがない。いや、一瞬だけ「わあ、わたしに大きな胸が付属するの?」と浮き足立った瞬間もあったのだけれど、それが幻想にすぎないことはすぐにわかった。なんというか胸が”子育て仕様”なのだ。セクシーに大きくなるわけではなく、魅力的に大きくなるわけでもなく。凡庸で機能的な色と形。銭湯でたびたび目にしてきた子育てを終えた戦士たちの胸。

これまで備えていたちょっとだけピンク色だったり奥ゆかしかったりする色と形が、日に日に目に見えるように消えていく。むかしはさ「きれいだね」とか言われたこともあったんだよ。「かわいいね」と愛でてもらったりしたんだよ。なにやら昔のモテ自慢をする切ないおばあさんのような気持ちで、湯をちゃぷんちゃぷん言わせながらお風呂に浸かっていると、どうにも悲しくなってくるのだ。

調べるところによると、このさき乳首の色がさらに黒くなり(赤ちゃんが探しやすくなるためだそうだ、こちらが丁寧に飲ませてあげるから色は変わらないで欲しい)、乳輪が大きくなり(なんのためなんだ)、出産時には今よりも何カップも大きくなっていくらしい。いまはその片鱗を味わっているだけで、今後はもっと”子育て仕様”になるのだろう。思えば哺乳瓶の乳首などは確かに真っ直ぐにとんがっている。あれが飲みやすい形なのだとすると…、今から乳首もガンガン前へ前へと突き出すのであろうか。

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もう元のわたしでは無いんだな。

あんまり寂しくなって、リビングにいた夫に声をかけて、洗面所に来てもらい、裸を見せた。

「ねえ、身体が変わってきちゃった」

夫に告げると、夫は「そんなことないよ」「大丈夫だよ」と慰めてくれた。世の中には「うわ、ほんとだ」といやそうな顔をしたり「太ったな」と傷つくことを言ったりする夫もいると聞くから、わたしの夫は本当に優しいのだろう。でもどこからどう見ても「そんなことないことはない」ので、夫の言葉も鵜呑みにできない。

「見て。ほら、こんなに変だよ。デコルテの血管は東京の路線図みたいに這っているし、胸だってこんなんじゃなくて、もっとかわいらしかったよ。こんなことなら、綺麗なときにもっと見ておいてもらえばよかったよ」

夫はいちおう「そう?」と言いながら一瞥するものの、撫でたり愛でたりするわけでもなく「大丈夫、大丈夫」と言って、すぐにリビングへと戻っていく。

大丈夫? でも、好きではないでしょ?

ほんのわずかにいじけた気持ちになって、ひとり静かに唇をとがらせながら服を着た。リビングに行くと、夫は食い入るように録画した番組を見ていた。なにを言って欲しいわけでもない。夫の対応に不満があるわけでもない。「すごく魅力的だよ!!」と鼻の穴を膨らませて欲しかったわけでもない。何が欲しいのか自分でも全くわからない、この気持ちの根源は、この気持ちの孤独は、なんなんだろう。

すべての母たちが同じような変化を経て子を産んでいるのだ。街で見かけるあの大きなお腹は、ある日突然身体に付くのではなく、自分の皮を伸ばして伸ばして徐々に大きくなっていく。戦士の胸はゆっくりゆっくりあの形になる。そんなこともわからなかったなんて、人の想像力はとことん薄っぺらいものだと思い知る。

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それに”母体”になるのは、身体だけではなかった。
人からの扱いも、あっという間に変化した。

両親は口すっぱく「妊婦なんだからね」と言い、夫も「大丈夫?」とお腹を見つめながら話す。他人からの目線もカバンにささやかにつけられた妊婦マークに注がれているような気がするし、報告をした会社の人たちも「重たいものは持たないで!」「体調は大丈夫ですか!?」「この予定大丈夫ですか?」と非常に気遣ってくれる。

ものすごくありがたい一方で、わたしがわたしではなくなって「お腹に子がいるわたし」になったことをひしひしと感じてしまうのもまた事実。そしてそれがちょっぴり複雑でもある(しかしありがたいのよ。本当に)。

そういえば数年前に、姉が妊娠しているにも関わらず、わたしと母に伝えずに真冬のディズニーランドに一緒に行き、丸一日あそび倒して、夜になってから「じつは、妊娠しました」と報告をしたことがあった。スプリングロールを食べているとき、じつは吐きそうだったのだと言う。母は嬉し泣きをしながらも「早く言ってよ! そしたらディズニーで無理させたりしなかったのに!」と言い、姉は「そう言われると思ったから内緒にしてたの。ごめんね」と言っていた。気を遣う姉らしいなあと思いながら聞いていた。姉の持論はこう続く。

「妊娠したことを人に言ってしまうと、それ以来わたしは”妊娠した人”になってしまう。いろんな人から気を遣われて、妊婦として扱われるようになる。それは嫌だから、もうすこし黙っていたかったんだよね」。

正直、よくわからなかった。
だって妊婦なんだもの。だって妊娠しているんだもの。
早々と人に気を遣ってもらって、快適に過ごせばいいんじゃないの?
だって妊婦だもの(3回目)。

当時は、そう思ったものだったが今ならわかる。自分が妊婦であるという事実に、本人がなかなかついていけないのだ。

「妊婦なんだから」
「妊婦なんだし」

そう言われるたびに「わたしが1人で生きていた頃」から遠く離れていく。妊娠期間を経たあとは「母」になる。「わたしが1人で生きていた頃」はもう二度とやってこないのだ。姉は、周囲の人に気を遣わせたくないのではなくて「気を遣われたくなかった」のだろう。自分のために。もう少し自分が、世界の中で「ただのわたし」として生きていくために。

もう元のわたしでは無い。

それが妊娠してから「ぽかぽか湧いてくる」のではなく「ジリジリ迫ってくる」感覚で憂鬱でもあるのだった。

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それでも、赤ちゃんは育っていく。
お腹の子の成長を伝えるアプリが日に日に伝えてくる情報は、ちょっと笑ってしまうほどに忙しい。「腕が伸びてきた」とか「指ができました」とか「臓器が完成しました」とか。まだ身長は6センチくらいしか無いと言うのに、もう人型にかなり近づいているというのだから驚く。

進み始めた時間は止まらず、勾玉のような形から、ゆっくりと手足が生え、指ができ、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、呼吸器が育っていく。望むと望まざるとにかかわらず、外の世界に出ていくその時のために準備をし続けている。ものすごいスピードで。それと同時にわたしの胸は大きくなって、黒くなって、お腹の皮が伸びて、腰を痛め、身体中を痛める。

いっしょに、すすんでいる。いっしょに、そだっている。

同じ時を共有して、母になり、子になっていく。

−−もう元のわたしでは無い。

この言葉を唱えるとき、切なさと寂しさの奥深くに途方もなく大きな幸せが横たわっていることもなんとなく気づいている。

あと数ヶ月はお腹の中の生き物といっしょ。
きみが頑張るなら、わたしも耐えるよ。飲みやすい、大きな胸で待ってる。

現在は妊娠8ヶ月(!)。6ヶ月ごろから胎動を感じるようになり、すこしずつ実感も湧いてきたものの、鏡を見るたび、服を着るたび、憂鬱になる気持ちは止められない。何を着ても驚きのフォルム。「変なの」と零せば夫は「変じゃないよ」と言い、でかすぎる腰回りに「デブだね」と零せば「デブじゃないよ」と夫は言う。レシーバーが如く、必死にフォローしようとしているのか、脊髄反射での肯定なのかは定かではないけれど、こういう夫に助けられているのだろうなとも思うのだった。

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