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いや漢字多いな

己の未熟や欺瞞や劣等感と向き合うことは難しい。

自分の内にある法廷には検察弁護士裁判官原告被告傍聴……まるごと自分しかいないために、ひとたび大元の目が曇れば全員の目が曇ったまま手続きは進行していく。ところでこれは民事事件だろうか、刑事事件だろうか、登場人物に血縁者が多いのできっと家事事件だろう。


Netflixで『西部戦線異状なし』を観る。原作に超有名な小説があり、映画化も一度なされている(こちらもアカデミー賞を受賞している)のだが、私は作品名を聞いたことのある程度だった。新たにアカデミー賞を色々受賞していたことで興味がわいて観たのだった。見たほうがいいか、とかは任せます。戦争を扱ったものだし、血が出るので難しい人は難しいかもしれません。

「政府が言ってるのと実態が全然違うじゃん」というショックがともかく過去にあった以上、公的な権力を不審がり、陰謀論に興味が向かうのは心情の流れとして理解できるものだなと思いました。(内容とはあまり関係のない感想)


『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を日本語訳で読んだ。面白すぎる。翻訳が少し怪しいところが多かったが、既出の指摘なので詳細を省く。本にへばりついていられる時間が少しだけ回復してきたような気がする。幼少期に比べて意識を逸らす用の脇道がたくさん作られているのがわかる。とくにSNS、あれはいけない。(最近Twitterから離れているからSNSに対して強気の姿勢だ)アイデア未満のことを書き留めていち早くみんなに知らしめたいという形の脇道が主線なので、雑につらつらと書いているこのnoteも役割としてはTwitterと似たようなもんである。


作品に触れると作品の色で周囲の世界が塗られる。思考の形式や方向性も乗せられて変わってくる。

私に触れた人が私のようになってしまっては、それは嫌だなと思う。世界で私だけが読者でいたいという種類のわがままだ。それぞれが詩的生命体でもある以上それは叶わない。


愛に興味がある。愛を科学的に解剖したい、戦略的に使いこなしたい。語の意味の広さを考慮して言うなら、コントロールできる部分とそうでない部分の限界を完全に明らかにして、前者を完ぺきに会得してみたい。



Wikipediaに書いてあったアンディ・ウィーアーのウェブサイト

古すぎる httpだから安全ではありませんとなっている


2年前の巣篭もりハヤカワSFセール以来のブームがきているので、積んでいた三体の最終巻と『AI法廷のハッカー弁護士』を読みはじめる。

SFのおもしろみの核の部分には思考実験の楽しさがある。「原子爆弾が発明されなかったら」「産業革命が訪れなかったら」「レベル5の自動運転が普及したら」と現実的な範囲で現実をずらしてみたり(?)「生命の意識が統合されてしまったらみんなハッピーなのではないか」のような、一聴してどういうことかよくわからないが想像力を掻き立てられる設定を組んでみたりと、何をするにしても懐が深い。

自分だったらどんなふうに書くだろうか。親しみのある分野は大きく合理的な意思決定だから、「合理的」ないし「意思決定」を今の私たちが持っているイメージとはかけ離れたものとして表現し、しかしやはりこれも合理ではあるのだ、意思決定ではあるのだと気づきを得られるようなものにしたい。

例えばギャンブル漫画では、一見ばかげた行為をしているように見えて、もっと大局的な視点、あるいは別種のゲームにおいて手を進めている……というどんでん返しが展開の華の部分として描かれることが多い。そこでは意思決定の再解釈、拡張が行われる。

関係ないけれど、考慮すべきものを広くとった意思決定が、考えの至らない周囲に愚かだと断じられ……という展開には、弱者の復讐心を元にしたカタルシスがあるとおもう。実際には意思決定の愚かしさはただ愚かしいだけだったり、たとえそれが有効さを持っていてもその成就を見ることなく生きていくことがある。それだけでは単に悲劇だ。悲劇そのものを味わうことは(とりわけ当人には)難しいことである。


色々そのままにしちゃっています