「プロジェクト・ヘイル・メアリー」の素晴らしくも誤訳まみれの翻訳

この文について

この文は「プロジェクト・ヘイル・メアリー」の誤訳についてのものだ。
だから、未読の人はまずは本書を読んでみてほしい。
できれば原書を、それが難しいなら翻訳を。

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は素晴らしい本だ。
原文はもちろん、そして訳文もある程度は。

翻訳がひどいとは言わない。
この本のAmazonのレビューは4.7だ。
ひどい翻訳なら決してこうはならない。
しかし、誤訳は誤訳であり、この翻訳はそれによってある程度損なわれている。

誤訳だらけの素晴らしく読みやすい翻訳と、誤訳のない読みにくい翻訳はどちらがいいか?
これはもちろん程度問題なのだが、少なくともこの翻訳については、「誤訳のない読みにくい翻訳よりいい」と言える。
それぐらい読みやすい翻訳だ。

では、なぜぼくは世間にあふれる誤訳のない読みにくい翻訳について書くのではなく、この翻訳——誤訳だらけの素晴らしく読みやすい翻訳——について書いているのか?
それは、誤訳というのは誤字脱字と同じで、簡単なチェックによって発見でき、修正できるものだからだ。

文章の書き手にはいろいろな人がいて、中には誤字脱字が非常に高頻度で入ってしまうタイプの人もいる。
しかし、そういう人の翻訳でも、書籍であれば、一冊の本に50個も60個も誤字脱字があるということはない。
それは校正というプロセスが機能しているからだ。

誤字脱字はプロによって発見され、修正される。
誤訳もそういうことができてもいいんじゃないかと、昔から思っている。
翻訳確認のプロが粛々と原文と訳文を照らし合わせ、誤訳は発見され、修正される。
それが理想の姿だ。

しかし、どういうわけか翻訳というものはそうはなっていない。
そのもどかしさから、ぼくはこういう記事を書いている。
書いたところで、翻訳という営みに第三者のチェックが入るようになることは永遠にないのかもしれないが。

誤訳箇所(抜粋)

この本の誤訳は、科学的な考察やストーリーの理解を妨げていることもある。そういう箇所を中心に挙げていく。

つぎの世代

というわけで、ぼくはこの世の終わり──おそらくは異星の生命体が原因のもの──が行く手に立ち塞がっている状況で、子どもたちのまえに立って初歩的な科学を教えている。この世界をつぎの世代に渡せそうもないというときに、なにをしろというんだ?

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.53). Kindle 版.

この訳文では、主人公は「もう世界は滅びるんだから、何をやったって同じだ」という無気力な気持ちで教えているように読めてしまう。

原文は次の通り。

So it was that with the apocalypse looming—possibly caused by an alien life-form—I stood in front of a bunch of kids and taught them basic science. Because what’s the point of even having a world if you’re not going to pass it on to the next generation?

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.34). Random House Publishing Group. Kindle 版.

直訳は「だって、次の世代に世界を手渡していかないんだったら、そもそも世界を持つ意味なんてないじゃないか」となる。主人公は、教育によって、次の世代に世界を手渡そうとしている。それをすることに世界が存在する意味がある。それをしないんだったら、世界なんて滅びたって滅びなくたって同じじゃないか? と、こう考えながら主人公は教壇に立っているわけだ。
主人公の子供たちに対する愛の表れだ。

黒点の大きさ

黒点のクラスターの大きさを太陽面の幅の一パーセントと見積もる。黒点としてはごくふつうの大きさだ。つまり、ぼくはいま太陽の円周の半分を見ている(ここはかなり荒っぽい計算だ)。太陽は約二五日で一回転する(科学教師はこういうことを知っている)。だから、この黒点がスクリーンから消えてしまうには一時間かかるはず。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.66). Kindle 版.

最初に読んだときはここはよくわからなくて流してしまった。「つまり」が全然つながっていない。こういうことがあるから誤訳はよくない。

原文はこうだ。

I estimate the cluster of sunspots is about 1 percent the width of the disc. Pretty normal for sunspots. That means I’m now looking at half a degree of the sun’s circumference (very rough math here). The sun rotates about once per twenty-five days (science teachers know this sort of thing). So it should take an hour for the spots to move off the screen.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.43). Random House Publishing Group. Kindle 版.

“half a degree”、つまり0.5度だ! これで何もかもクリアになった。いま、主人公は画面を黒点のクラスターにズームして、画面いっぱいに表示している。その画面いっぱいの黒点が太陽の中心角0.5度にあたる、というわけだ。いま見ている恒星が太陽であれば、1時間、つまり太陽が一周する時間(25日)の1/600で、黒点が0.5度ぐらい動いてスクリーンから消えることになる。

作動要請なし

状態:自動修正軌道。作動要請なし。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.66). Kindle 版.

これを見て、「作動要請なし」とは何だろう? と思わなかっただろうか。原文はこう。

STATUS: AUTO-CORRECTING TRAJECTORY. NO ACTION REQUIRED.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.42). Random House Publishing Group. Kindle 版.

“NO ACTION REQUIRED"、「操作の必要はありません」だ。ついでに、"STATUS: AUTO-CORRECTING TRAJECTORY"も改善の余地がある。「状態:軌道を自動修正中」でいいだろう。

これはコンピューターに関わる人間だったらすぐわかるところだ。この訳者は、“idle screen"を「怠け者のスクリーン」と訳したりもしている。もちろん、「アイドル状態のスクリーン」が正しい。

アストロファージ

「〝アストロファージ〟(宇宙を食べるもの)ですかね」

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.80). Kindle 版.

ひどいセンスだ。アストロファージ(Astrophage)のastro-に「宇宙の」という意味があることは間違いない。どの辞書を見ても、「宇宙の」「星の」という語釈が出ている。しかし、この本をちゃんと読んでいたら、アストロファージが食べるのは「星」、より細かく言うと「恒星」でしかありえない。「星を食べるもの」だ。

ペトロヴァ

オーケイ、ペトロヴァ・スコープってなんだ?いちばん可能性が高いのは──アストロファージが放射する赤外線だけを見るための望遠鏡および/あるいはカメラ。ペトロヴァ波長でペトロヴァ・ラインを探す。だからペトロヴァ・スコープで、ぼくらはどんな言葉のまえにも〝ペトロヴァ〟をつけなくていい状況にしなくてはならないのだ。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.156). Kindle 版.

「どんな言葉のまえにも〝ペトロヴァ〟をつけなくていい状況にしなくてはならない」? 意味不明だ。真面目な読者なら、ここで考え込んでしまうだろう。原文はこうだ。

Okay, what’s a Petrovascope? Best guess: a telescope and/or camera that looks specifically for the IR light that Astrophage emit. It looks for the Petrova line via the Petrova wavelength so it’s a Petrovascope and we really need to stop putting “Petrova” in front of everything.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.103). Random House Publishing Group. Kindle 版.

ここで、主人公は「ペトロヴァ波長でペトロヴァ・ラインを探すからペトロヴァ・スコープで…」と3回も「ペトロヴァ」と言っている。それに対してうんざりしている気持ちを、“we really need to stop putting ‘Petrova’ in front of everything”と表現している。意訳すると、「ペトロヴァ波長でペトロヴァ・ラインを探すからペトロヴァ・スコープ… やれやれ、ペトロヴァ何とかにはもううんざりだ。」となる。
ここは、正しい意図が伝えられていないことよりも、間違った意図が伝えられていることのほうが問題だ。

最適任者

「…七〇〇〇人にひとりの中の最適任者を送ることになるの」
「平均すれば三五〇〇人にひとりです」

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.168). Kindle 版.

候補者は7000人に1人の冬眠耐性のある人の中から選ばないといけない、と解釈すると1行目はわかるが、次の行の意味がわからなくなる。結論から言うと、その解釈は間違っている

原文ではこうなっている。

‘…We'd be sending the seven-thousandth most qualified people.’
‘Three-thousand-five-hundredth most qualified people on average,’ I said.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.111). Random House Publishing Group. Kindle 版.

ストラットが言っているのは、人類の中から最適任者を選びたくても、冬眠耐性がある人を選ばないといけないので、7000番目に適任な人を選ばないといけない、ということだ。それに対して主人公は、「平均すると3500番目に適任な人になる」と言っている。
仮に、適任順に並んだ人材のリストがあるとする。1番目から順に、1/7000のくじを引いてもらって、それに当たれば候補者にできる、と考える。そうすると、だいたい3500番目ぐらいの適任者になる… ということだ。
厳密に考えるとこの理屈は怪しいのだが(補足記事を書いた)、まあ主人公が言いたいことはわかる。

ペトロヴァ波長

リングはタウ・セチのコロナで大量の光を放射しているだろうから、その一部はペトロヴァ波長のはず。
それを求めて必死で画像をくまなく見ていく。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.178). Kindle 版.

これは致命的だ。訳者は明らかにストーリーを理解していない。ちゃんと読んでいる人ならわかるだろうが、タウ・セチという恒星が放つ光にペトロヴァ波長が含まれるのは当たり前だ。主人公はそんなものを探しているわけではない。ペトロヴァ・ラインを探さないといけない。

原文は次の通り。

The hazy ring surrounding Tau Ceti remains. That’s to be expected. It’s the star’s corona, which will be emitting plenty of light, so some of it’s bound to be the Petrova wavelength.
I search the image desperately.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.118). Random House Publishing Group. Kindle 版.

訳文の「それを求めて」が完全な蛇足になっている。「必死で画像をくまなく見ていく。」だけでいい。

リモートコントロール

探査機にしては反応が早すぎる。もしリモートコントロールかなにかになっているのだとしたら、コントロールしている存在は少なくとも数光分以上、離れたところにいるはずだ──が、そんな存在がいられるような場所はこのあたりにはない。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.188). Kindle 版.

これは、しっかり読んでいなければ読み飛ばしてしまうようなところだろう。原文はこう。

That was too fast for any probe to respond. If it had remote control or something, the controllers would have to be at least a few light-minutes away—there’s just nothing around here that could be housing them.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.125). Random House Publishing Group. Kindle 版.

主人公は、ブリップAからすぐに反応が返ってきたから、これはリモートコントロールではないだろう、と推測している。それはなぜか。

リモートコントロールなら、それを操作する存在がどこか別の場所にいるはずだ。しかし、そんな存在がいられるような場所は主人公がいるあたりの位置にはまったくないから、そういう存在がいるとしたら、数光分以上離れたところにいるはず。しかし、それでは返事がすぐ返ってきたという事実に反する。つまり、ブリップAはリモートコントロールではない。と、こう考えたわけだ。

理解できたところで、訳文を見直してほしい。理解できるようになっているだろうか?

何トンもの

「あなたは冗長性と安全性と信頼性をもとめている、そうでしょう?だからわれわれは大きなエンジンをひとつつくるようなことはしません。小さいのを一〇〇〇基つくります。実際には一〇〇〇と九基です。それで必要な推力が出せるし、余裕もたっぷりある。航行中にいくつか故障する?問題ありません。ほかのが推力を上げて、補います」
「ああ」ストラットがうなずいた。「何トンもの小さなスピン・ドライヴね。気に入りました。今後もよいお仕事を」

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.243). Kindle 版.

「何トンもの小さなスピン・ドライヴ」? なぜ急に重さが出てくるのか。
原文はこうだ。

“You want redundancy, safety, reliability, yes? So we don’t make just one big engine. We make thousand little ones. One thousand and nine, actually. Enough for all thrust needed and much to spare. Some malfunction during trip? Not a problem. More thrust from the others to compensate.” “Ah.” Stratt nodded. “Tons of little spin drives. I like it. Keep up the good work.”

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.163). Random House Publishing Group. Kindle 版.

“Tons of”! こんな簡単な表現が解釈できないなんてことがあるのか。これはもちろん、「何トンもの」ではなく、「大量の」という意味だ。「大量のスピン・ドライヴ」と置き換えるとぴったりはまる。

Iλ+∀λ

いまのロッキーの時間、IℓI∀λ、を入力して、八時間後はどう表示するのかスプレッドシートを見てみると──Iλ+∀λだとわかった。

アンディ ウィアー. プロジェクト・ヘイル・メアリー 上 (Japanese Edition) (p.293). Kindle 版.

多少なりとも注意深く読んだ人なら、この数字(?)が5桁であることに疑問を持っただろう。後の部分で、「おもしろいことに、ぼくがもどる時間は六桁だ。」と言っているからだ。これは英文読解力の問題ではないが、これを5桁にしてしまうというのはひどい。

原文はこう。

I enter the current time on Rocky’s clock, which is IℓI∀λ, and have the spreadsheet tell me what that clock will say eight hours from now. The answer: Iλ+∀∀λ.

Weir, Andy. Project Hail Mary (p.196). Random House Publishing Group. Kindle 版.

原文では∀(正確には∀ではないが)が2個ある。翻訳の際に、何かのミスでこれを1個にしてしまっている。そしてそれは致命的だ。

終わりに

ここに挙げた誤訳は全体の中のごく一部だ。
全誤訳のリストは次のツイートからたどれる。

ぼくはこれまで、ときどき出くわす誤訳まみれの翻訳を読むたびに、こういったものが世に出てしまう状況が何とかならないものかと心を痛めてきた。
これまで別の場所で文を書いたこともあるが、何ともならなかった。
今回もおそらく何ともならないだろう。
でも、一抹の希望を捨ててはいない。
拡散してもらえるとうれしい。

せっかくnoteで書いたので、有料部分もつけておく。
誤訳に関するものではなく、英語版で読まないと味わえないようなところ。
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を日本語版で読んで、英語版を読んでいないという人が対象。

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