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正義

正義とは何か。多数で決まる事でもなく、間違えた者を責める事でもない。そして「正しい」とは何か。人にやさしくする事、困っている人を助ける事なのか?善い人間と正しい人間は違うはずだ。思考の先にしかない答えで、生きている「場所」や「環境」で変化してしまう答えでもない。自分が進化し続ける限り答えは研ぎ澄まされていくはずだ。核心は考え続ける事によって見えてくる。

正義も正しさも「責任」である

いじめられている人を救う事。これは勇気がいる。助ける側の意見として、いじめを受けている人間を、なぜ助けたいと思ったのか?そして、いじめている人間をどう思ったのか?自分の中で感情は動いたのか?冷静に「くだらないからやめろ」と思ったのか、それとも弱い者いじめをする者に対しての怒りなのか?そして怒りは何に向いているのか?自分の行動を全方向から可能な限り観察することから思考に繋がる。自分が発する言葉、行動することの答えをきちんと持ち合わせる必要がある。どうしてか。自分の外に向けて言う言葉には責任が伴うからだ。自分が良かれと思って言ったこと、やったことは、果たして誰かのためになるのだろうか?そして、それは誰かを責める事に繋がらないのだろうか?責めてもいいが、誰かが誰かを救う時、何かが犠牲になっては同じことの繰り返しに繋がるのではないのか?つまり、ただ一つの答えなんて存在しないのだ。生きることは全て責任がつきまとう。答えがなかろうと、思考し続ける必要があるのは、そういうことだ。正義を考えるとき、愛を知る必要がある事に気が付く。愛のない正義はただの暴力になりかねないからだ。愛を知ることは人間にとって大きな課題なのかもしれない。愛されることが愛ではないのだ。愛は欲するものではなく、発するものであるから。自分の中に愛を見つけ、与えることで知っていくものである。相手を活かすことであって、相手から奪うことではない。愛は表面的な経験では語れらないのだ。

例えば…

スーパーの店内を走り回っている子供がいる。母親は商品を見ている。この状況にも様々な意見があるだろう。温かく見守る人、大丈夫?と手を差し伸べる人、しつけをきちんとしなさいと叱る人、危ないな!と文句を言う人。同じ状況でも、立場によって意見が変わることがある。そして、どれも間違えではない。何が正しいのかは、それを見た全員が考える事。つまり、見た人、そして感情が動いた人は、その時点で現場の当事者になるのだ。自分の問題に変化する。実際には買い物している親子の問題だが、口を出した時点で当事者になる。やさしく伝えること、真っ当な事を伝えることが正しさではない。注意している人間を見て、気持ちよく買い物ができなくなる場合もある。また、子供との買い物中に「子供」から目を離す人、離さない人にも考えの相違があるので、正しい答えをすぐには出せない。

「子供の安全のために」

「周りの迷惑にならない様に」

「商品をいたずらさせないために」目を離さない、傍にいさせる。

「少しの間だから」

「騒いでいるのに付き合っていたら買い物ができないから」

「そもそも、騒ぐなんていつも通り」だから、少しばかり目を離す。他にも理由はあるかもしれないし、そもそも違うかもしれないが、想像で思いつくことを記載してみた。

世の中の母親は一人で子育てしている人も多い。家事や子育てに協力的な男性も増えているかもしれないが、現実的に一人で育てている女性もいる。同じ女性でも、子供がいる人と、いない人では答えの出し方が違うと思う。子育ては簡単ではない。十人十色であることは間違いない。それこそ、答えがない。

世の中のお母さん、毎日お疲れ様です。

子供に愛を伝えると、きっとその子は正義を体現し続けてくれる大人になるかもしれません

本来なら世の中の大人がその姿を見せてあげるべきなのでしょうが

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