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手のひらを太陽に~いのちを感じる①~

夏の盛りのある日の話。


愛犬との朝の散歩から帰ってきて、ひと通り家事を済ませ、熱い緑茶をすすりながら一息ついていると、まだパジャマ姿の娘が左手をお椀のように丸め、ベランダに出て行った。そして戻ってくると、

「母さん、家の中にアリがいたよ」

と言う。

そうなのだ。散歩中にゴミ拾いをしているため、春先からゴミと一緒にアリを持ち帰ることがたびたびある。アイスクリームの容器を真っ黒にするアリの大群を見ると、ゾっと全身の毛が逆立つ。トングでつまみ上げ、容器を地面に叩きつけたり、近くの水道で勢いよく流したりしているが、それでも家まで連れて帰ってしまうことがあるのだ。

「そうなんよ。さっきも台所で見たよ。」

背中で答え、もう一口お茶をすすった。

「え、それでそのアリ、どうしたの?」

ゴクリと熱いお茶が喉を通った。

私は台所を這うアリを見つけ、目はテレビのニュースに向けたまま人差し指で潰して生ごみの袋に入れた。まるで埃を指でなぞって捨てるかのごとく。

返答に詰まった私の様子から察した娘は「ひど。」と冷ややかに言い放った。娘はアリを外に逃がしたのだろう。台所の水道の蛇口をひねり、「アリは何も悪いことはしていないのに」と手を洗った。

「だいだい、アリなんて、いつも人間に踏まれてるんだし」

まさかの、“14歳の娘に説教されている状況” に少し取り乱した私は、とっさに反論したものの我ながら苦しい言い訳となり、無関心を装ってテレビのチャンネルを変えた。

娘はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、冷静な口調でこう続けた。
「アリってね、人間が普通に踏んだくらいじゃ死なないようにできてるんだって」

おそらく、彼女が慕っているモっさん(学校のベテラン先生)から聞いたのだろう。彼女の雑学のほとんどはモっさんから得たものだ。


考えて見れば、私は、「虫を殺さない」という考えは今まで持ってこなかったかもしれない。命は大切、でも虫は例外。そんな風に思っていた節がある。特に私はアリが苦手だ。

海外勤務の夫に初めて帯同したのはモルディブ共和国だった。新婚。いちばん料理をがんばった時代。おいしいものを、ではなく、アリに台無しにされないように、と。

建物の上層階にも関わらず、アリたちは容赦なく侵入してきた。肉を解凍した時に出るドリップやご飯を炊いた後の炊飯器の内側にできる水滴を真っ黒にした。みりんのボトルの中はいつもアリたちがプカプカ浮いていた。大きいアリは糖分を求め、小さいアリは肉を好んだ。外出先から戻ってきた時、朝起きた時、もぞもぞ動く大きな黒い塊や家をズンズンと横断する長い行列と毎日のように格闘した。

あれ以来、私にとってアリは敵だ。害虫だ。動物の虐待や殺処分は言語道断だが、人の命を脅かしたり、生活に害を与えたりする生き物は例外なのだ。小さな蚊でさえ「人の命を奪う最も危険な生き物」と言われているし。

では、拾ったゴミについてきてしまったアリたちは?


―僕らはみんな生きている―
子どもの頃によく歌った『手のひらを太陽に』

  ミミズだって オケラだって アメンボだって
  みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ

改めて歌詞を見れば、生きとし生けるものの命は同等だという直球メッセージだ。どうりで脳内に刷り込まれているわけだ。とはいえ、これを歌って育った子どもたちがみなアリ1匹殺さない大人に成長していると言えるだろうか。

カエルの解剖実習廃止を求める人がいる。イカやタコを生きたまま熱湯に入れて調理するのは命を軽視しているという意見もある。最近では、動物性食品をいっさい口にしないヴィーガンも増えている。反面、こういった声に全く関心を持たない人もいる。

「虫けら」や「畜生」という言葉が存在するように、私たちは知らず知らずのうちに、命の価値にランク付けをしているのかもしれない。そして、その価値を示すバロメーターはみな独自のものを使用しているのだ。

そもそも。そもそもだ。『手のひらを太陽に』が教えてくれたように、命の価値に優劣はないはずだ。命はどの生き物にも平等に「生」と「死」しかない。優劣をつけるのは命そのものにではなく、その命と自分との距離感であり、判断するのは己の感情にすぎない。自分に近い関係のものから優先順位をつける。よその犬とうちの愛犬が危険にさらされていたら、間違いなく私はうちの犬を助ける。どこかの誰かの死と身内の死の悲しみは比較にならない。

私たち生き物はみな関わり合って生きている。お互い不都合もあるが、モッさんが言うように、ちょっとやそっとじゃ死なないようにできているのだろう。ほかの命を奪わなければならないという状況は、自分や家族、仲間を守る時であり、生きるための手段である。野生のクマが人を襲うのは身の危険を感じた時。ハチが人を襲うのも然り。動物界の弱肉強食だって生きるためだ。己の都合や感情でほかの命を奪うのは、人間だけなのかもしれない。



その日の夕方の散歩は、景色が一変していた。

セミがいつもにも増してやかましい。木の幹を這う虫たちがやたら目につく。体の何倍もある戦利品を運んでいるアリもいる。蝶なのか蛾なのかわからないが、愛犬の周りをぐるぐる飛んでいる。すれ違う人の表情が目に留まる。なんだろう、行き交う人も虫もみんな活気づいていて、いつもの公園なのに、初めての町にやってきたみたいに気持ちも躍る。私の見ていた世界が古くなった保護フィルムを剥がしたかようにくっきり鮮明に見えるようになったのだ。

私はようやく命の平等を悟ったわけではない。『手のひらを太陽に』を好んで歌い、これまでに出会った先生方や本、映画などから、様々な視点で命について教えられ、考えてきた。

だから、14歳の娘に教えられたのでもない。ただ、娘の放った一言によって、私が今まで人間外の命を都合よく定義してきていたことに気づかされたのだ。その衝撃はじわりじわりとやってきて、私の中に無秩序に並べられていた命にまつわる情報を、ドミノ倒しのように加速しながら倒していった。カタカタと流れるように軽快に。あちこち枝分かれしながら隅から隅まで一つ残らず。そして、倒れた牌がすべて繋がると、1枚の大きな絵が現れた。優しくて懐かしくて温かい。見たことあるようで見たことないような心安らぐ景色。


軽やかな足取りで帰宅し、愛犬の足を拭き、うんちをトイレに流す。そして持ち帰った公園のゴミを分別して台所横のゴミ箱に入れる。ゴミ箱の蓋を閉じた私の右手の甲に、小さなアリが1匹乗っかっていた。

「はいはい」

私は右手を揺らさないように腰の高さに上げたまま歩き、ベランダに出た。

外はどっぷり日が暮れている。しゃがんだ背中に愛犬の心配そうな鳴き声が聞こえた。よいしょ、と立ち上がり空を見上げる。太陽はないけれど、そっと手のひらを空に向けてみた。

「ただいまー!!」

塾から帰宅した14歳の娘が、吠えている愛犬を不思議に思い慌てた様子で家に飛び込んできた。

「なんだ、母さん、いるんじゃん。何してるの、そんなとこで」

娘はリュックを放り投げ、愛犬をなだめようと近づいたが、愛犬は奥の部屋へと逃げていった。

夏の盛りのある平凡な日、私の見える世界が大きく変わった日の話。


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