病院と藤棚と私
あれは2011年、震災の年の5月9日、きょう父が死ぬという日の朝、私はがんセンターのホスピスの藤棚の下にボンヤリと座っていました。
前の晩、母と2人で父の病室に泊まり込み、父が苦しそうにうなりだすたびにナースを呼んでモルヒネを打ってもらっていたのです。
握った父の冷たい手の、その先がもう半分どこかに続いているのがなんとなくわかりました。
その先は暗く冷たく、ぞっとするものがありました。
私はそれが怖くて夜中までテレビをつけっぱなしにしていました。
真夜中の病室のテレビにはいとうあさこさんが映っていました。ひまわりみたいに笑っていました。でも、その笑いの中には彼女のいろんな感情の歴史がこめられていて、こんなときだからこそ見えてしまう彼女の底力に救われたものです。
翌朝、母が私に言いました。
「たぶんもうそろそろだから」
「そう」
私は病院の庭に出ていき、中庭の藤棚の下に座り込みました。寝不足の頭を抱えながら、ふと今日が友達の誕生日であることを思い出し、お祝いのメールを打ちました。
「お誕生日おめでとう」
するとすぐに「サンキュー✌️」という返事がかえって来ました。
サンキュー、か。
もちろん、友達はサイキックではないのですから、今の私の状況なんか知るよしもありません。私もいちいち「いま父が死ぬのを待っているところでーす✌️」なんて言いません。
でも、あれは私の人生における「寂しい瞬間オリンピック」で金メダルが獲れるほどの寂しさでした。
万有引力とは引き合う孤独の力である、と言ったのは詩人の谷川俊太郎ですが、引力の発生しない孤独というのはそれはそれでつらいものです。
でも、思えば私だって、これまでにそんな状況の友達から「お誕生日おめでとう」とメールをもらって「サンキュー👍」なんて答えていたかも知れないのです。
人ってやっぱり、どんなに明るく見えても、それぞれ壮絶な孤独の中で生きているわけなので、これからはニコニコ笑ってる人を見ても額面どおりに受けとめちゃいけないな、とそのとき思いました。
そんなこんなで悲しい気持ちで病院の庭を歩いていると、70近いパジャマ姿の女性が草むらに座り込んでいるのがふと目に入りました。
そっと近づいてみると、ノドに手術跡があります。彼女は花壇わきの草むらに座り込み、懸命になにかを探していました。
ーああ、四つ葉のクローバーを探しているんだ。
私はすぐに気づきました。
そのとき、ふとその女性が顔を上げ、目が合ってしまいました。仕方がないので会釈して、ちょうどポケットにのど飴があったのでおひとつどうぞと渡しました。
すると彼女はいきなり私に向かって嬉しそうに手を合わせ、ほとんど聞き取れるかとれないかのかすれ声で言ったのです。
「ありがとうございます。マリアさまからもらった飴、大事に大事にいただきます」
彼女はきっと、そういう信仰のある人だったのでしょう。でも私はもうびっくりして、何が起こったかわからないまま動揺してその場から離れました。ーマリアさま?
私はこれまでこの話をどこにも書いたことがありません。
つまりそれくらいこれは私にとって、解釈に困ることだったのです。
ですが、私が夜中のテレビでいとうあさこさんを見てものすごく癒されたように、その女性も私の中に何かを見たのかもしれません。
それはきっといとうあさこさんにとってはあずかり知らぬことだったように、その女性が私を見てマリアさまと呼んだのも私とはなんの関係もないことです。
ですが、それでもちょっと考えました。
もし彼女の信仰が本物なら、もしかして彼女はほんとうに私のうしろにマリアさまを見たのかもしれない。
もしかして石川淳の小説「焼跡のイエス」みたいに。
だとしたら私は彼女がとてもうらやましかったです。
ひとはもしかしてなにもしなくても、ただそこにいるだけでひとの役に立つこともあるのかもしれません。
私の父は生涯どこか少年ぽさが抜けず、たいそうワガママな人でしたが、寝たきりになった最後の数ヶ月は仏さまのようでした。
お父さん会社がつらいよう、と父のベッドに伏して泣く妹の頭を、父がそのむくんだ手でそっとぎこちなくなでているのを見た私は、ああお父さんたら人生の最後になってやっと人を思いやれる人になったんだなあ、としみじみ驚いたものです。
人はどうして死ぬんだろう。
どうして懲りずに生まれてくるんだろう。
まとまらない頭を抱え、理由のわからない涙をだらだら流しながら藤棚のところまで戻り、ひょいと上を見た私はその瞬間、「あ」と変な声で叫んでいました。
藤の花に香りがあることに、その時初めて気づいたのです。
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佐伯紅緒(さえきべにお)
小説家/脚本家/女優。2006年、長編小説『エンドレス・ワールド』でデビュー。
他に映画『RE:BORN』(脚本)、ドラマ『僕の初恋をキミに捧ぐ』など。
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