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黄昏の卒業アルバム ~死にゆく街、戻らぬ日々 (主に副業に関する近況です)

何やら詩のような意味深なタイトルになってしまいましたが、カッコ書きのところにも書いているように、本日は私の副業に関連する近況報告の類いです。(間あいだに挿入している画像は、テキトーに引っ張り出してきた過去の写真で、内容とは必ずしも関係ありません (^_^;) なるべく大阪で撮ったものを集めてきましたが、街並み画像以外は大阪外の写真もあります📷)

先日、半年に一度のいつもの面談ですと言われて、久々に職場(市内のホテル)に行ってみたら、なんと諦め倒産のお知らせでした😱 こんな状況なので、そうなる可能性も充分にあると頭ではわかっていたはずなのに、自分で思うほど覚悟は足りていなかったというか、長期休業の最中に呼び出されて、藪から棒に支配人から直接聞かされると、頭が真っっっ白になってしまい、何も考えられなくなりました😨

あとで電話で話した同僚も、同じことを言っていましたね。タイミングとして、ちょうどワクチン接種が日本でも始まり、そろそろ緊急事態宣言が解除されるのかな、と期待される時期に来ていたこともあって、事業再開の目処が立ってきたから面談するのだろうと思っていた、と。そもそも従業員を一同に集めての説明会ではなく、一対一の個人面談だし、呼び出しの電話をもらったときにも、いつも定期的にやっている面談を、ちょっと前倒しで2月中にやることになりました、という言い方だったので、そりゃあ前向きな話だろうと勘違いしてしまいますよ💦

新コロ第一波の時にも、稼働率がみるみる間に10%以下にまで下がり、すでに一度はあの場を失ったつもりでいたんですが、何故だか、はっきりと倒産のお知らせを受けた今回の方が、ショックが大きくて堪えました😨 もうね、翌日まで一切何も考えられないくらい、茫然となりましたよ💦 もう二度とあそこには戻れないんだ、あの楽しかった日々が過去になって、その続きを歩むことがついに永久的にできなくなったんだ、と。

あれから一週間近くが経った今でもまだ、今後のことなんて考えられないというか、考えたくもない気分です。先行き不安だの収入がどうのこうのという次元の問題じゃない。せめてもうしばらく、あそこで過ごした日々の余韻に浸っていたい、そんな簡単に掻き消してしまいたくない、という思いから、これまでにあの職場であった色々なことを、しみじみと振り返っていました。

私は本来、薄情なくらい「過ぎた場」に執着しない性分で、学生時代の卒業式などでも、周りの大勢が去りがたい思いで大泣きする中、「なんでそんなに泣いてんの? 私はとうに次のステップへと意識が移っていて、進むべき先しか視界に入らんぜ」という思いで、振り向きもせずに1人でさっさと去ってしまうタイプでした (^_^;) だって、国境を隔てて散り散りになるわけじゃないんだから、今後とも長きにわたって付き合い続けたいと思えるほど仲のいい相手とは、卒業しても連絡を取り合えばいつでも会えるわけだし、卒業を機に離れてしまうようなら、そもそも最初から大した間柄ではなかったという証拠になるので、手っ取り早く相手を見極められていいんじゃないの? 残る者だけ残りゃいいんだよ。ってなもんです。← コールドブラッド💧笑

同級生や周りの人たちから、よく「切り替えが早すぎて怖い」とか「その割り切りの良さが凄い💦 サバサバしてるね~!」とか言われたものです。更に社会に出てからは、(やりたいことがはっきりしていたから、というのもあるけど)「仕事なんざ、食ってくためにするだけで、はじめからどこにも所属するつもりはない」と、その手の傾向がますます強くなっていました。6年近くいた職場を辞めるときにも、「私にしては長居しすぎたな。ここではこれ以上新しい発見も発展もなさそうだし、そろそろ違う世界に移るか♪」とあっさり退職を決め、周りに惜しまれてもこっちは実は全然惜しくないぜ、という薄情極まりない思いで去っていきましたしね。(← 能力的には高く買われ、優遇されていたけど、こんな連中に好かれても全然喜べん、と思うような、他の職員をパワハラでいびりまくっていた人たちにまで何故だか大いに気に入られていたので、こういう場にこれ以上馴染むと自分がバカになる、という思いもあったのです、この時は。自分がターゲットにされていなくても、胸くそが悪かった💢)

それ以外にも、引っ越し先やら転職先やら、あちこちの色々な場に身をおいてきましたが、去り際にはいつも晴れ晴れとしていて、むしろ解放されたような気分しかありませんでした。必ずしも居心地の悪い場や馴染めない場ばかりではなかったし、自分の意思とは関係なく やむを得ずに去った場もあったのに、その点だけは変わらなかったのです。後ろ髪ひかれるような気分になったことは一度もなく、一瞬にして、昨日までの月日を「明日からは関係がなくなる使用済みの過去」にしてしまえた。何がきっかけで去るにしても、「ああ、時が満ちたんだ。きっと今が去り時で、心機一転するには最適な時期だから、起こるべくして起きたことだろうな。この場で学ぶべきことや吸収すべきことはすでに充分身に付けたから、自分を進むべき明日へと導く兆しが見えてきたに違いない」と清々しい思いで割り切って。

そんな生き方ばかりしてきた私だけに、こうも例外的に後ろ髪ひかれるのは、やはり、今回コロナ倒産という形で失うことになったあの職場が、それだけ例外的なまでに自分に合っていて、居心地の良い職場だった、ということだと思います。『職場』といっても、私の本業はあくまで執筆業の方だから、やりがい云々や仕事内容云々ではなく、やっぱり何よりもメンバーが良かったんだと思いますけどね。

あそこはインバウンド依存率80%以上の繁華街のホテルで、国際色豊かな職場環境だったので、日によっては、日本にいながら日本人に殆ど会わない日もあるくらいでしたが、まさにそれが、私にはちょうど良かったのです。経歴上、実は文学部ではなく外国語学部卒で、文章を書けば「英語を訳したような文章」と言われ、口を開けば、結論からズバッと先に言ってしまったり表現が直球すぎたりして、日本人が相手だとその物言いだけでもビビられていた私には、ね A^_^;) ← 年月を経て、さすがに最近は、日本人をビックリさせない遠回しで無難な話し方も自然にできるようになりましたけどね。日常的にそんなやり取りばかりだと、やはり今でもフラストレーションが溜まるのです😓 日本生まれ日本育ちなのに、何故か・・・・・・💧

もちろん、会社自体も管理体制のしっかりしたところで、クリーンでした。以前、国際会議の参加国が最上階を貸し切りにするような、ラグジュアリー系の高級ホテルにいたこともありますが、あそこは会社自体が激しくブラックだったので、スタッフは皆過労状態でギスギスとして、ミスは多いし責任の押し付け合いや競争ばかりで、ろくな場ではありませんでした。メンバー1人1人がどうであれ、会社がバカでブラックで命令系統もブレブレ、なんていう職場環境では、やっぱり色々悪循環で人心が荒みがちだし、全体に居心地の悪い場になっていくんですよね。

だから会社の存在自体にも感謝しているんです。立場の弱い方に当たることはあっても、上には決して楯突かない従順すぎる国民性が仇になって、ブラック企業の巣窟になりがちなここ日本(← 他にもいっぱいブラックなとこを見てきたし、知人友人もブラック企業体験談がてんこ盛りです💧)にありながら、珍しく良い意味で末端にまで目が行き届いていて、本当に良くしてもらったと思う。

特に印象に残っているのは、元の支配人の退職後、私のいる店舗を管理監督することになった統括の支配人の存在です。

あの人は、これまでに私が巡り会った人たちの中でも三本の指に入るくらい、心底から頭の下がる人物でした。ブラックな会社の上司ならば(会社経営者だったうちの親も含めて)、自分では何もできないから他人にすべてを押し付け、めちゃくちゃに怒鳴りつけてでも仕事をさせる、というお粗末なやり方になりがちですが、あの総支配人は、どんな仕事でも一度は必ず自分でこなし、まずは行動でお手本を示してから、背中で人を導くタイプでした。もちろん、外国人スタッフの多い職場ですから、「背中で示したんだから、もう分かるよな?」と察するに任せるのではなく、言うべきことはバシッと言って、要かなめはしっかりと決める。ただし、末端の気持ちを理解できない一方的な物言いにだけはならないよう常に心がけている人なので、甘くはないが後腐れがなく、皆この人が言うなら素直に頑張ろうという気になれる、そんな人物でした。

ある時、その総支配人が、ハウスキーパーと同じ作業服を着て部屋の掃除まで始めたときには、さすがに仰天しましたけどね😲 笑 別に人手が足りないから、というわけでもなかったのに、あえて自らやっていたのです💦 そしてフロントスタッフも、一度は必ず同じことをさせられました。(← 汚れ仕事をバカにするような従業員の育て方だけは決してしない、というのがあの人の理念でしたから💨)

またあの人は、設備的な問題までも、業者任せにせず自分で解決してしまうことが度々あって、本当に何でも自分でこなせる人でした。とにかく常に自分自身で立ち回って仕事をし、立ち止まることがない。従業員1人1人の評価や活かし方も、恐ろしく的確だったし。ブラック企業の上役なんて、勤務中ひたすら椅子に座ったまま立ち上がりもせず、スナック菓子片手にブクブクと肥え太りながら、家族や呑み仲間と電話で雑談ばかりしていたり、ゲームアプリで遊んでいたり、会社の経費で遊び歩いていたりするのにね(笑)← 全部この目で実際に目撃した例です💧

そんなだから、あの総支配人は、言うまでもなく皆に尊敬されていましたよ。悪く言う人なんて、私の知る限り1人もいなかった。

私は、自分自身も失業した身でありながら、諦め倒産の話を聞いた面談の帰り道、頭の中で『あの人は今後どうなるんだろう、あんな人が報われないような世の中にだけは、絶対になってほしくないな』という思いでいっぱいでした。自分があの場を失ったんだという喪失感は、自宅に着いた頃にやっと出てきたくらいです。

まあ、あれほどの人なら、これからもいくらでも活躍のしどころがあるだろうし(年齢的にも、たぶん私とそう違わない40代半ばぐらいのはず)、周りが放っておかないはずだから、そんな心配は余計なお世話でしょうけどね(笑) そうであることを切に願います。

ここまでは人に関する話ばかりでしたが、他にもね、改めて振り返ってみれば、あの職場を気に入っていたポイントは無数に挙げられます。

たとえば、内装。照明の具合や、窓からの日射しの入り具合といったものも、一見些細なことのようでけっこう重要です。黒あるいはダークグレーなどの暗い色を基調にしたホテルだと、一見高級感があってカッコよく見えるけど、ほんの数日泊まっていくお客さんとは違い、ずっとそこで働く身としては、気分的にだんだんと陰鬱な気分になってくるんですよね (^_^;) 以前いたラグジュアリー系ホテルがまさにそれだったので、実体験で覚ったことです💦 ましてそれが人間関係のギスギスとした嫌な職場であれば、尚更です。出勤する前から、昼間でも夜のように暗いあの陰気な場所に、今日もまた行くのか~💀 と、どんよりとした気分になってしまうんです。

それから、職場の中だけでなく周辺の街並みというのも、ある程度ポイントを上げていたかなと思います。立地が大阪ミナミの繁華街でしたから、ようするに帰りがけに遊んで帰れたんですよ(笑)🍦💎🍸🎬

オフィス街のホテルにいたときは、行きがけには「今日も仕事だ~💀⤵️」という周りの勤め人たちのピリピリと張り詰めた空気が伝わってきて、こっちまで変に肩がこってしまったし、帰りは遊び処もなく駅に直行するだけ。対する今のホテル(← 倒産決定により来月末には契約が切れるけど)は、周辺一帯が遊びムードで、空気が常にユルい印象でした。(たとえば平日と土日祝日の空気って、外に出たときけっこう質感が違うと思いませんか? 自分の気の持ちよう一つの問題ではなく、世の大勢が漂わせる気の伝わりみたいなもので。あれと同じです (^_^;))

飲食店やデパートが処狭しと立ち並び、映画館もあれば書店もあるし輸入食品や雑貨のお店なども色々あって、ホテルに来るお客さんたちも、大半はビジネスではなく観光目的なので、皆楽しげでした。そんな具合だったから、仕事に行くはずなのに、こっちも何やら遊び気分になっていて、出勤前からウキウキしていたものです (^_^;) ← 緊張感ゼロ💧 帰りには、稼いだ分だけ使ってしまうこともあるくらい存分に遊んで帰り、毎日が旅行・観光気分でしたね😅(← ホテルの中はほぼ外国、という状況だったし ✈)

こうして振り返っても、つくづく楽しい日々でした✨
今まで生きてきた中で、一番贅沢三昧のやりたい放題な日々だったかも🍸💸💍😅 かつて人間臭さに欠けるほど物欲がなく、頭だけでなく財布の紐まで固かった昔の私が見たら、卒倒したことでしょう(笑)

それもこれも、周りに誘惑が多すぎたからです💦

それが今では、街並み全体がすっかり活気をなくし、あっちもこっちも倒産が相次いで瀕死の状態に・・・・・・。(関西圏だと、大阪よりも神戸や奈良の方がひどいようですが💦)

コロナによる不景気の恐ろしさ、大恐慌のなんたるかを、ここに来てやっと本当の意味で身近なものとして実感し始めました。ステイホームで自宅に引きこもっているだけでは、なかなかそのあたりの現実に対しても実感がわかず、危機意識も鈍化してしまいがちですが。

ともかく、私にとってのきらびやかな日々、そして、副業なのに本業を忘れるほど気に入りすぎてしまった充実した日々は、ついに幕を下ろしてしまった😨 何事もいずれは終わりのときが来るとは言え、よもやこんな形でいきなりその時を迎えようとは・・・・・・。

後に何人かとは再会できたものの、新コロ第一波で皆が散り散りになったあの時点で、本当はもう終わっていたんでしょうね。レストランにいた人気者のインドネシア人は、とうとう戻ってこなかったし、以前一番親しくしていた中国人の同僚とは、少人数に切り詰めて再開したここ数ヶ月の少ない出勤日数の中で、とうとう一度も再び顔を合わせることがなかったし。(← 私とは曜日違いで出勤していた) 第一波の時点で早々に辞めてしまった人や、どうにかタイミングを見て帰国したと見られる人もいたりで、見事にバラバラですよ。

でも、それでも、ほんの僅かでもあそこに戻れて幸いでした。昨年2月半ば頃に一旦あのホテルを離れた後、人の誘いであっちへこっちへ居場所を移して、一時的に在籍していた別の職場があったんですが、どれもこれも私には合わず、「こんな状況でもなければ、間違ってもこんなお粗末なところに来るはずがなかったのに💢」と思うようなところばかりだったので、内心ずっと「私は今もこれからもあっちのホテルのスタッフだ。あくまであそこが再開するまでの辛抱だから💨」と自分に言い聞かせることで、耐えがたきを耐えていた。というか、ある時期からその本音が声に漏れ出ていたらしく、同じホテルから移ってきていた同僚に、「最近、会う度いっつも前のところへ戻りたいって言ってるね」と言われました😥

確かに、家に帰ってからも「ああ、早く戻りたい」としょっちゅう呟いていたくらいですからね。いつかは必ずあそこに戻れる、というのが暗いトンネルの先の出口であり、それを支えに暮らしてきたコロナ禍の一年間だった、と言えるでしょう。

新コロ騒動で仕事が激減し、急きょ他所の職場を転々とすることになったおかげで、他との比較によって改めてますますあのホテル、あの職場が一番だと、そのありがたみを再実感できた。その果ての今だからこそ、あんなにもいい会社が、大きな負債を抱えて火の車状態で諦め倒産に至ったのだという知らせ、そして自分がもう戻れなくなったんだという現実は、第一波のときのショックとは非にならない重みがあったのだと思います。ただ一時的に仕事がなくなったのとは違う。今度は会社自体がなくなり、戻りたかった場そのものが消滅するのだから、もはや何の期待も残りません。


でも、こんな状況でも、残ったものは確かにある。

記憶です。


思えば、私には(特に子供の頃は)ろくでもない記憶が多すぎたから、里を捨て行方をくらましDV家庭から失踪する際に、卒業アルバムさえも平気でポイっと置き捨ててきたのですが、内心こんなことを思っていました。「卒業アルバム? なんで皆こんなもの一つで、おセンチな気分に浸れるんだろう? 私は教師当たりが良かったから学校は嫌いじゃなかったし、むしろ正当な理由を得て家庭から離れていられる貴重な安全地帯だったけど、常に満たされない凶暴な目付きをしていた子供時代の自分なんか今更見たくもないし、そもそも流れ者気質の私には、アルバムなんて食えもしないもの、場所ばかり取って邪魔なだけだ」と (^_^;) ← やっぱり醒めている。いや、スレている💧

そんな私に、ここに来てようやく、手放したくない記憶、浸っていたい思い出ができた。戒めのために意図的に留めておこうとする過ちや失敗などの負の記憶なら、これまでにも山ほどあったけど、思い出すと心地好い気分にさせてくれるから、という理由で好んで振り返る記憶なんて、私には貴重すぎる。しかもそれが、職場がらみの記憶だとは😲

誰よりも私自身が一番驚いていますよ。
とても自分の話だとは思えない (^_^;)


そんなわけで、総支配人には、面談のとき正直に言っておきました。この職場、この会社、ここの人たちに関しては、感謝しかありません。今まで色々行ってきた中で、ここが一番良かったです──と。

かつてあんなにも厭世的で皮肉屋で冷ややかだった私が、こんな言葉を綴れるようになるほど、また自分の胸の内に初めて卒業アルバム的なものを見出し、留めておこうと思えるほど、充分すぎる記憶を残してくれた。子供の頃からずっと私に欠けていたものを、与えてくれたのです。

だから結果はどうあれ、あの場で一時でも過ごせて本当に良かった。あそこを選んで正解だった。

──ちなみに、ここに載せている上4枚の画像👆は、今まさにうちに咲いている春の花たちです。面談の帰りに、本当はその足でまた大阪城公園にでも行って、しんみりと感傷に浸って過ごすつもりだったんですが、あの日はキンキンに冷え込んだ真冬日だったので、風邪をひいたらバカにならん💦 と断念し、結局悶々と自宅にこもる破目になったんです。でもそんなとき、ちょうど前日に、いつも利用している花屋さんから届いていたこの花たちの姿が目に留まり、大いに癒されました💐✨ 品種もお届け日時も自分で決めて送ってもらったのですが、意図せずして最高のタイミングだったわけです👍 それこそ、この子たちは、この日のためにうちに来てくれたのかな? と思うようなタイミングの良さ。

大事にします。
醒めきっていたはずの胸の内に、今更ながら宿った my アルバムも、この花たちも🌷 そして卒業します。私にとっての一番の学校を (/_;)/~~



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