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【うつ病せんせい】1. プロローグ

 “Fact is stranger than fiction.(事実は小説よりも奇なり。)”
 イギリスの詩人バイロンの「ドン・ジュアン」にある言葉だ。それまで比較的平凡だと思っていたわたしの人生も、気まぐれな夏の雲のごとく、奇妙に動き出したのであった。
 2020年6月半ばのある日、わたしの身体は突然動かなくなった。「動かなくなった」というより、「電池が切れた」という表現がふさわしいかもしれない。
 朝、いつもの時間にスマートフォンのアラームが鳴り、画面を触ってその忌々しい音を止める。なんだか腕が重い。職業柄、早起きは慣れていて特段苦痛ではない。はずが、その後の動作が何ひとつ進まない。脚がつった感覚ともちがった。
 あれ? ベッドから起き上がるには身体をどう動かすんだったっけ――。
 頭の中に「?」マークが次々と浮かぶ。動かない。わたしの身体は、何か重い物体のようにベッドの上に虚しく横たわっていた。かろうじて首から上と腕と指は動かせたので、職場に連絡をいれる。疲れ果てているであろう当直帯の後輩を叩き起してしまうことに心苦しさを感じながら、体調不良なので遅刻する旨を手短に伝えた。その日はいつまで経っても起き上がることが出来ず、そのまま仕事を休んだ。
 ベッドに横たわったまま夜になり、次の日の朝が来た。信じられないかもしれないが、わたしはこの日も全く同じことを繰り返したのだ。そして次の日も――。
 動けなくなって3日目の夕方、心配した先輩が自宅にやって来た。ベッドから降り(落下し)、玄関まで這って行った。そのとき何を話したか詳細には覚えていないが、先輩はたしかこう言った。
「ななちゃん、それ、“うつ”よ。」
 “うつ”ってなんだっけ……いやそれよりも、やっぱり異常ですよねこれはね……。
 それから約1週間は、なんとか水分だけ摂取していた。当然ながら風呂には入れないし、着替えることさえ出来なかった。
 受診した心療内科では、2種類の問診票を記入した。現在の状態についての問診。そして、元来の性格に関する問診。
 これらの結果から、『中等度~重度のうつ状態』と診断された。
 ちょうど30歳、医者になって5年目。これが、三枝ななの、うつ病人生の始まりだった。

(つづく)

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