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鈴の音に導かれ、この男は力強く生きたのだ : 或る「小倉日記」伝を読んで

福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)在住であった松本清張が、地元を舞台に、森鷗外が軍医として小倉に赴任していた3年間の日記「小倉日記」の行方を探すことに生涯を捧げた人物を主人公として描いた短編小説である。

Wikipediaより


 私が20代のころ、この本を原作としたドラマを観たことがある。もう30年ほど前になる。
 私はその頃、悩みも多く、鬱屈し、自分の将来はどうなるのかと、漠然とした不安を感じながら、過ごしていた。
 私が観たこのドラマのことを、天声人語でも紹介されていたことも覚えている。
 そのコラムでは、まずは主役の俳優の自然な演技をほめていた。そこから何の話に続いていったかまでは、私は覚えていない。

 確かに、その俳優の演技は、素晴らしく、その時、私はドラマに涙を流したと思う。その時の私は、この主人公を、不遇な、報われない人生を送った男の話として、捉えたたように思う。

 ドラマを観た時から、もう25年近く経ったと思う。だから私は、この話をすっかり忘れてしまっていた。



本が好きな我が子から、この話を思い出す

 私は鬱屈した20代を過ごし、結局30代も、まぁそんな感じだった。そして今、50歳を過ぎた。

 現在、私には小学高学年の子がいる。40過ぎて産んだ、待望の一人っ子だ。
 
 子は、小学校の生活の半分以上を、特別支援学級で過ごしている。
 ここで、我が子の苦手なことを、少しあげるなら、聴覚が過敏で、苦手な音があると、衝動的な言動、行動に出てしまう事があり、時には人に迷惑をかけてしまうことがある。また、通常クラスで、一人で授業を受けることは、授業内容を理解することも含め、とても難しい。

 我が子は、苦手なことも多いけれど、好きなことも多い子だ。親としては楽しみだ。小さい頃から本に親しんだ事で、本が好きな子に成長した。今は、もっぱら、漫画を読んでいる。(また、YouTubeの誘惑に、流されつつあるが…)

 そんな我が子が、本を棚から探す姿を見て、私が「将来、司書の仕事でも…」と思った時、この「或る「小倉日記」伝」の話が、私の頭の中で「あっ」と浮かんだ。記憶の彼方にあった、この話が。

 この原作を見つけたのも、我が子のおかげだ。
子の好きな漫画を買いに、古本屋に行った際、見つけた。何か、この本に巡り合わせを感じた。

 だが、この本の主人公の、「時代と、置かれている身と、環境」は、我が子のそれとは、また異なる。

 この本の感想に限らず、人を、あるカテゴリーの中で一括りにして、考える事、語ることを、私はなるべく避けるようにしている。本当に一人一人違うし、悩みも千差万別、非常にデリケートな話で、私には語る経験も、力量もないからだ。

 それでも、この本を何度も読み、今現在、感じたこと、考えたことを、素直に書いてみようと思う。

 それは、本をむさぼり読む、我が子の姿から、昔観たドラマの主人公が、ふいに出てきたからでもあるが、今回原作を読んでみて、20代に、ドラマを観た時とは、また違うものを感じたからだ。
 それは、ドラマと原作の違いからだけでは無いように思う。

 発達特性がある我が子を育てている中で、また私自身も年齢を重ね、ものごとに対しての、私の考え方、捉え方が、少しづつだが、確実に変化してきたからだ。

 だから、私にとってこの本は、何か縁があるような気がしたのだ。


 前書きも長いが、あらすじもさらに長い。
 ダメな感想文だが、これでも、当初より随分短くした。

あらすじ

「でんびんや」の思い出から鴎外の世界へ

 ようやく、この本の話をしたい。
 主人公の田上耕作という男は、生まれつき、言葉を出すことが難しく、左足に麻痺がある。
 一方、学業は優秀であった。
 母ふじはそのことを喜び、また耕作自身も、そこに自負を念を抱いていた。世間との疎外感は、今よりも強かっただろう。耕作は孤独を紛らわすよう、文学の世界に入っていく。

 耕作には、小さい頃、貧しい老夫婦と、その夫婦と一緒に暮らす女の子と過ごした思い出がある。その女の子は、幼き時の耕作の、唯一の友達であった。
 この女の子と暮らしていた、じいさんの職業は、「でんびんや」というものだ。幼い耕作には、どんな職業なのか分からない。
 じいさんは、朝早く家を出て、また夜遅くまで、ちりんちりんという鈴の音を鳴らしながら、町を行き来するのであった。
 
 じいさんの鈴の音は、幼き耕作にとっては、唯一遊んだ女の子への、ほのかな思いと共に、感傷の響きとして、心に残った


 耕作が青年期に入ると、江南という文学好きの友達ができた。その青年が森鴎外の『独身』という本を、耕作に見せにきた。その本にでんびんやの記述があった。

 てんびん(伝便)とは、郵便で間に合わない場合に、手紙や、時には品物を持ちに走る、使い走りのような、当時の小倉にあった職らしい。
 性急な恋において、恋文も急いで渡したい場合もあるだろう。そんな時、この伝便は役立ったようだ。

 耕作は鴎外の作品から「伝便」の由来を知る幼き時に遊んだ女の子と、あのじいさんの鈴の音に懐かしさがよみがえる。
 そして、次第に鴎外の文学の世界に傾倒していく。


耕作、本にのめり込む機会に恵まれる

 母ふじは、耕作を仕立て屋に弟子入りさせるが、身体の問題と、耕作は職人気質が肌に合わず、早々に仕事を辞める。
 その後、大病院を経営する白川という医者と出会う。白川は資産家で文化人だ。
 耕作は白川から、新刊書の購入や、車庫に並べることを任される。実際、耕作は、書籍の整理番号をつけ、あとは、その購入した本を読むだけであった。

 昔ドラマを観た時、この場面は印象的だった。
 ドラマでは、耕作の本の分類の仕方から、本をよく熟知している、賢い男だとわかる場面であった。


何か打ち込むものを見つけた母の喜び

 耕作はこの頃、出版された岩波版「鴎外全集」に、鴎外の小倉時代の三年間の日記が散逸している事に注目した。
 耕作は、小倉時代の鴎外を知る関係者から、どんな言葉でも「採集」し、資料を集め、散失した「小倉日記」に代わるものを作りたい、その事を、一生、取り組みたいと決意した。
 ふじは、子が初めて打ち込めるものを見つけて、大いに喜んだ。我が子が、鴎外の話を、もたつきながら話すのを、うれしそうに聞く、ふじ。


鴎外を求める、果てしない旅

 耕作は、鴎外を知る、何人かの人物に会いに行く。鴎外を知る人を訪れるエピソードの中では、鴎外の作品にも登場する、後に住職になる友人の
未亡人を訪ねに行く場面が、切ない。

 その住職の未亡人の住まいは、山の中だ。
 片足が不自由で、一里以上歩く経験がない彼には普通の人の何倍もの、堪える道のりだ。
 片足を引きずりながら、その亡くなった友人宅に着いたが、そこに現れた未亡人の老弟とは、お互いの言葉の理解が難しく、通じない。
 疲れ切って、家に帰った耕作を励ますよう、母ふじは、今度は、生活費の半分を充てて、人力車を二台頼み、耕作と共に、再び未亡人の宅を訪れる。母が一緒についてきた際は、1度目の応対と違い、その鴎外の友人の未亡人に話を聞く事ができた。

 鴎外を知る人たちから話を聞いた後、耕作は草稿を作る。その草稿を鴎外全集の編集委員の一人に送る。その編集委員から「あなたの研究は意義ある」と返事がある。その返事に人生の希望を感じ、涙ぐむ母と子。

 医師の白川の病院で働く看護師とのふれあいも、また哀しさを伴う。
 耕作の容姿に構わず、自然に付き合ってくれる看護師てる子。母ふじは、てる子が耕作の嫁になってくれればと、ほのかに願うが、てる子は若さゆえ、無邪気に耕作と会っていただけで、本気ではないと、ふじに伝える。
 そのふれあいは、はかないものだとわかると、母子の結びつきは、一層強くなる。耕作はますます鴎外へ、のめり込むのであった。

 戦中、戦後の食糧難から、耕作の身体は悪化。
 ふじは、ヤミで食糧を買い、彼に食べさせるが、身体の麻痺の症状は酷くなるばかりだった。
 耕作が寝たきりになってからも、友人の江南は何度か訪れ、励ます。江南に整理してほしいと思う程、彼の草稿は、風呂敷包一杯になっていた。
昭和25年の暮れ、彼の「小倉日記」は世に出ないまま、耕作は亡くなってしまう。

 彼の死後、昭和26年2月、紛失していた本物の「小倉日記」が、東京で見つかった。
 発見された事を、耕作は知らず、亡くなった。


この本を何度も読み返して

耕作に対しての私の思いは、20代のそれとは、全く違った

 冒頭にも触れたが、20代でこのドラマを観た時、主人公を、不遇な、報わらなかった男と捉えた。

 耕作に対しての、世間の見方や、日々の生活は、現在のそれ以上に、非常に辛かったのだろうと、私は察することしか出来ない。
 壮絶な人生を想像しながらも、今回原作を何度も読み返した感想は、「不遇な、報われない主人公」ではなかった。
 
 耕作が、鴎外の「小倉日記」を追い求めると決めた時、自分が夢中になれるものを見つけたことを、本人も希望を抱き、また母も、一番に喜んだこと。耕作が母に、夢中になって鴎外について、嬉しそうに話すところ。
 全体的に暗さがあるストーリーの中でも、この場面は、この母と子に、また読者にも、温かい、ほのかな光を与えている。

 この主人公ように、人生のなかで、何か打ち込めるものを見つける事ができる人は、どれほどいるだろうか。

 私にも、何かを見つけたような気がした事はあった。しかし、最後まで成し遂げることもなく、今に至る。(私はただの人生の怠け者だ!)
 
 だから、彼の人生は不遇な、報われなかったとは、今の私は、思わない。
 むしろ私には、夢を追って、輝きを放ちながら生きた男として、ただ眩しく写った。

 彼の「小倉日記」が世に出ることもなく、賞賛されることもなく、終わったとしても。本物の「小倉日記」が見つかり、彼の創作が意味を成さないものになったとしても。

 小倉時代の鴎外を求め続けた過程においては、耕作は、人生を懸命に力強く生きることができたのではないか。小倉時代の鴎外に、深く触れることができたのではないか。その時間は、とても生き生きとしたものではなかったか。今、何も成し遂げていない私には、憧憬の念すら感じる。

 鴎外を知る人物に会いに行く際、片足を引きづりながら、歩いた山道。紅葉の彩る山道に、百舌のさえずりが聞こえる。木々の合間から溢れるわずかな光が、耕作にそそぐ。
 
 秋の山道は、新緑の時とはまた違う、美しさがある。その道のりは、耕作の人生そのものを表しているようだ。

「何か」を見つけれなくても。

 鴎外の研究を続けながら、耕作は「これが何の意味をなすのか」と人に問われた。また彼自身も、晴れ渡る空の雲を見ながら、自分にそう問うた。
 ここも、私には考えさせられるところだ。
 私は今現在、何も成し遂げていない。何かを見つけられる人はわずか、成し遂げる人はもっとわずか、成功する人は、ほんの一握りだからだ。

 人は、人生に、自分のしていることに、意味があるかどうか、考えてしまう。もちろん、そう考えること、その時間はとても大切だ。
 だが、最終的には意味をなさなくても、そこばかり考えなくても、いいのではないかと、私は思いたい。
 この感想文を書いている時にも、「この昭和の名作について、私が書いて、何の意味があるのか」と何度も思ったぐらいだ。
(私なりにきちんと読み、あらすじを書いたが、Wikipediaと殆ど変わらない)

 意味があろうか、なかろうが、夢中になれるものを見つけた人は、本当に幸せだと思う。我が子にも、何か夢中になるものが見つかれば、いい。それを、もし成し遂げたなら、それはうれしい。賞賛される日が来たら、親として、どんなに誇らしくことだろう。
 だが、もし見つからなくても、成し遂げなくても。まずは、我が子の一日が、少しでも、明るく、楽しいものであるように。そんな日が、子の人生の中で、少しでも多くありますようにと、私は願うばかりである。私自身のこれからの人生も、そうあってほしい。
(我が子は、独自のゆるやかな発達段階にいるので、何かを成し遂げる事を、子のこれからを、親が決めつけないでいたい。我が子が、自身で何かをつかみ取ってくれればいい。そのささやかなお手伝いとして、子を育てていきたい。)

確かに鈴の音は聞こえたのだ。

 耕作の死の間際、彼は何か耳をたてるような格好をした。母が「どうしたの」と何度か聞くと、「鈴の音が聞こえる」と言った。その時、冬の戸外には、足跡も聞こえなかった。死の直前の幻聴かもしれない。

 いや、冬の中、死の瞬間、耕作は確かに鈴の音が聞こえたのだろう。幼き頃に遊んだ女の子の思い出から、鴎外の世界へと導いた、でんびんやの鈴の音が。

 恋心を抱くことしか叶わなかった彼には、時に急ぎの恋文を運ぶという、あのでんびんやは、はるか彼方から、耕作に、手紙を渡しに来たのかもしれない。

 その手紙は、どんなものだっただろうか。