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「自分のこと」をどう書いてゆくか

ささやかながら仕事で文章を書くようになってから、「自分のこと」を書くことに抵抗を覚えてしまっている自分がいる。

著名人のインタビューならば、ひとは、少なくともファンの人は興味を持って、楽しんで読んでくれるかもしれない。コンテンツに関するコラムだったら、コンテンツという媒介をもってコラムそのものも楽しんでもらえるかもしれない。

どうしたら読んでもらえるだろうか、はて、どうしたら興味を持ってもらえるだろうかと考えて書くうちに、いざエッセイを書こうと思うと「自分語りをする自分」が恥ずかしくていたたまれなくなってしまった。誰がおぬしのあんなことやこんなことを読みたいねん、と。

そう思うことが、そもそも自意識過剰なのだろう。

わたしはいつからか欲が出てしまって、1人くらいに刺さればそれで良いや、とも思えなくなってしまったし、だけど多くの人の中で何事もなかったかのように心に残らず淡く消えてなくなるようなものも書きたくないと思う。

自我と客観の狭間で揺れて揺れて、その中の心地よいところ、不安がありながらも心にかすかな確信を持って送り出せるものを、ずっと探し続けている。

「自分語り」はときにものすごく恥ずかしい。けれど、語らなければ厚みも出ないし、心に刺さるものは作れない。

アカデミー賞で「パラサイト」が受賞した時、監督のポン・ジュノさんがこんなことを言っていた。

最も個人的なことは
最もクリエイティブなことだ

マーティン・スコセッシの言葉らしい。

自分を「ネタ」にするんじゃない。自分を主役にするのでもない。ただ、自分の感情を最大限に汲み取るだけ。触覚を敏感にして、鋭くさせ、クリエイティブに落とし込むだけ。

そう思うと、自分語りも、少しは抵抗なくなるのだろうか。1年と少しエッセイを書いているけれど、いまだにわからないことばかりだ。

きっとこんな風に、自我と他人から見える自分とのバランスを想像しながらゆらゆらと漂い続けて書くことが、わたしにとって「書くこと」なのかもしれないな、とも思う。

多くの人に、読んでもらいたい。読みやすいものでありたい。でも、読み流されるのは寂しい。そう思わずには、いられないのだ。長く続く、テーマ。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。