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他人のことなのにそこまで怒らんでも、という言葉へのアンサー

河村たかし名古屋市長の酷すぎる行為に対しての怒りが収まらん。

人の所有物を勝手に口の中に入れる、という行為だけでももちろんめちゃくちゃアウトなのだが、しかもそれが並外れた努力の末に世界で一位という称号を得た証である金メダルなのだから、尚更アウトである。リスペクトのかけらもない。目の前に現れた男に突然顔めがけて唾はかれるのと大差ない。ていうかそれよりやばい気がする。(金メダル獲ったこと無いからわからないけれど。でも訴えたら勝てるレベルとは思う)

その釈明?の言葉として出された「愛情表現のつもりだった」も、何がまずかったのかを理解していないことがわかるお手本のような言葉だ。殴る蹴るを繰り返したのちに「ごめんね、好きだからだよ」というDV男と一緒だし、公衆の面前で部下を怒鳴り散らし「君の成長のためを思ってやったことだ」というパワハラ上司と根本的には変わりないと思う。本人に悪気がない。決定的な認知のずれがある。それが一番やばい。

これを「相手が男性アスリートだったらこんなことしなかったのでは」という視点も目にするし、たしかにそれもあると私は思う。けど、そういうジェンダーの視点を外して考えたとしてもおかしい。ライターやってるくせに語彙力なさすぎて申し訳ないがキモい・グロいとしか言いようがない。


こんなふうに世の中に起こっていることに対して怒っていると、「そんな怒らんでも・・・」という声を目にすることがある。(まぁ今回は目に入る声みんな河村市長にキレてる気がするけど)

たしかにこれは直接的な政治案件ではないし(特に都民である私にとっては)私に直接的な危害が加わったわけではない。今回被害にあったメダリストの知り合いでもなければ、その競技のことすらよく知らない。それでも私は、声を大にして怒る。他人のことだけど、怒る。もちろん単純に「腹が立つ!あり得ん!」と衝動的に感じる怒りもあるけれど、それだけではない。外野が怒らないと、なんなら外野こそ本人以上に怒らないと、報われないことがあると知っているからだ。


よほど自分の中にマイノリティ性を感じたことがない人は経験ないかもしれないが、結構な人が少しぐらい似たような状況に置かれたことがあるんじゃないかと思う。

目の前で急に行われた許せないことにその場で反応できず、動揺の輪郭を掴みきれず、へらへらと笑ってごまかすことしかできず、数時間経って、数日経って、あまりの悲しさと悔しさにやりきれず涙したこと。

ものすごく傷つくことを言われたのに、なんでかわからないけど「ここで仕返ししたら負けだ」と思って平気なふりして、その後一人で泣いたこと。

セクハラまがいの発言をされたけど、そこで怒ったら何十人、何百人の場をしらけさせる勇気がなくて、笑うしかなかったこと。

感情を出したら「めんどくさいやつ」って言われるんじゃないかと怖くて、その後の仕事もやりにくくなるんじゃないかと怖くて、感じたことを吐き出せなかったこと。


私には山ほどあった。というか今でもある。むか〜〜しからそういうことを繰り返してきてしまったせいで、心の中に引っかかっているものを認識して言語化するのにものすごく時間がかかるようになってしまった。今、こうして文章を書くことで、その練習をしているようなものだ。少しの違和感をスルーしたくないから、日々こうして声をあげたり、感じたことを表に出すように努力している。そうでもしないと、押し潰されてしまう。そういうひと、きっとめちゃくちゃいっぱいいるはずだ。

そういう経験を少しでもしたことがある人は、あの挨拶訪問の現場で、メダリストの彼女が声を上げられず、作り笑いしかできなかった気持ちが痛いほどわかるんじゃないかと思う。(いやもちろん彼女の言葉は聞いていないから想像の世界だけれども。)


こういう経験はいくつもあったけれど、一番最近のこととして思い出されるのは前職の会社を退職するか否か迷っていた時のことだ。

復帰するか、退職するか、の二択に迫られ、色々な人に会って色々な話をした。その中である人に言われた一言が、私の8年間の会社人生の全てを踏み躙るような言葉だった。ざっくりいうと「あなたの能力ではなく、あなたの労働時間を評価していました」「残業できない人を欲しい部署はないでしょう」というようなことだった。

「残業できない人を欲しい部署はない」。なるほど。そういうもんなのかぁ。だって会社だもんなぁ。やっぱりソルジャーじゃないと、認めてもらえないのかぁ。

心の中がズッタズタになりながら「そうですか...」と普通に答え、面談を終えた。

その後、カフェで母に会い、こんなことを言われた、と話をした。その後の母の怒り様は凄まじかった。顔色が変わり「なんだそれは、酷すぎる。今から私が話をしてくる」と立ち上がり、今にも本当に殴り込みにいきそうな勢いだったからびっくりして、「ちょっと待って待って」と止めた。そこで私は初めて「怒っていいんだ」と思った。そこでようやく、涙がポロポロと出始めたのだった。あの時の母があそこまでわかりやすく怒ってくれなかったら、自分の感情のやり場を見失い、あのまま押し殺し、心の中で腐らせていたんじゃないかと思う。人の怒りが心を救うことって、あるのだ。


ちょっとイラッとすることを言われた時、くらいのレベルだったらその場で不機嫌になることもできるだろう。特に、気心の知れた仲だったら。

でも、本当に心が傷ついた時、壊れた時、その怒りの感情をそのレベルのまますぐに表に出すことはかなり難しい。怒りを怒りとすら、悲しみを悲しみとすらしっかり認識できることなくその場は過ぎ去り、その後自分一人でその悲しみを思い出し抱え込むことになる。そんなの辛すぎるのだ。


他人のことだろうと、関係ないことだろうと、怒っていい。それが無駄な労力になるとは私は思わない。それで救われる人は、その対象者の人だけかもしれないし、仮にその人が求めていなかったとしても、それ以外のことで同様に心に傷を負っている人を救うことになるのかもしれない。怒りを表明する、ということは、表明する方はしんどいけれど、しんどい分だけの救いのパワーがあると思うのだ。


最後に、今後本件に関して適切な対応がとられること、そして被害にあったメダリストの方の心の傷が、少しでも癒えることを心から願っています。

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