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感覚的になるか説明的になるか

そう言えば春は、久しぶりにがっつり作品を作ったのでした。


photo by Nagano satoshi

代表を務めさせていただいているアーツトンネルが主催する、空き家を使った展覧会「Archibaco」に出品しました。

「行間を編む」という作品です。

以下作品に関するテキスト↓

行間を編む

夕暮れ時に1人隠れた祖母の家の縁側の外に立てかけてあったよしずから漏れる西陽の線

大きな池のある夜の公園から聞こえる牛蛙の声

靴の中にあった鍵についていたクリスタルピンクの恐竜

物事やその人の本質というものは、人生における大きな事件やイベントそのものよりも、それらの間にある、とるに足らないふと思い出す一瞬の残像や匂い、質感にこそあるのではないかと思います。

この作品は、主に津野地区に住む人たちの日々の間にある小さなものたちと、この地点からの風景を編集して作っています。


photo by Nagano satoshi

私はもうずっと物とかを包んで作品を作っています。
拾ったものとか、展示空間いあるものとか、新しいものではなくて、誰かの気配が残っているようなもの。
今回もその延長のような作品で、会場となった津野地区の方々から集めたものを包み込んだフィルターを作って、津野の風景と重ねました。

作品を展示した窓からは、この辺の方々のアイデンティティの一部と言っても過言ではない英彦山が望めます。


photo by Nagano Satoshi

物を提供してくれた方や、近隣住民の方がたくさん見にきてくれて、そこから思い出話が聞けたり、楽しい時間が過ごせました。

私は、作品だけで完結するのではなくて、その先に、鑑賞者それぞれが自分の経験と重ね合わせて、何か考えたり、何かが生まれたりする、その状況が好き。

自分が作品を見るときも、やっぱり誰かの作品を自分に重ねたりして、自分なりに感じる、何か発見がある、なんだかわからないけど心が揺さぶられる時が一番幸せ。

もちろん個々の作家のコンセプトや思想はとても大事だけど、それって作家自身のものだよなと思うのです。とてもとても個人的。

それで今回いろんな方に作品を見てもらって、話したりして、私はまだまだ思想が足りないなあと思いました。

考えることを手放しすぎていたのではないだろうかと。
でも前みたいに考えすぎて作品を作ると、とても説明的になるんだよな。

何が正解かわからないけど、こうやって正解のないことを相手に一生もがいて表現して、他人にはわからない、自分の中でトライアンドエラーすることが大事なのかも。


photo by Nagano satoshi

個人的に面白かった感想は、若いアーティストに
「佐土嶋さんの闇を感じました!」
と言われたことでした。

展示をすると、そういうの聞けるから面白いな。

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