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かたっぽの靴から考える

ある一つの断片から、いろんなことを想像する。

例えば、道路の真ん中に落ちている片方だけの靴。

あれってどういうことなんだろう。
バイクとかに乗っていて、かたっぽ脱げたとか?
家に帰るまで気づかなかった〜。とかかな。
それとも、めちゃ急いでて、靴のかたっぽくらいどうでもいいやって感じかな。

あるいは、事件性も感じる。

散歩してたら拉致られたり。揉み合って、靴かたっぽ落ちたけど、車に乗せられたとか。
徘徊していたら、靴片っぽ脱げてそのまま川に流されたとか。

野性の動物の仕業という可能性もあるよな。
洗って、庭に干してた靴かたっぽだけ、穴熊とかが咥えて持って行ったとか。

いずれにしても、所有者による靴への諦めを感じる。
靴かたっぽなくなること以上の何かをそこに感じる。

世の中の事件のニュースとかを見ても、色々想像する。本当は現場で何があったのか。小さな心の動きとか、温度とか。

断片が引きずる気配。気配なのかもしれないな。

図書館で借りた本が面白い。汚染などにより手がつけられず放置された廃墟に新しい生態系が生まれることについての本。人が居ないことでゼロからまた始まった生態系。でもそこには、廃墟故の気配がある。不思議な空気が流れている。
山や森の自然とはまた違うんだろうな。

行ってみたいなあ。とか思いながら、そうだ、廃墟好きで、写真集とか学生の頃買ってたなと思って、見返してみたりした。

何かの現象を目の当たりにした時、表面だけを見るのではなくて、いろんなことを想像しなくてはいけないなと思う。

悲しみの奥には美しさがあるかもしれない。結局きっかけは何だったのかって一言で説明できない、関わる人々の小さな揺らぎが交わったり、合わさって巨大化したり、偶然やらも加味されたりするんだろうなあ。

先日読み終えた川上未映子著「黄色い家」もそんな話だった。
ぜひみんな読んでほしい。

私ももう一度読みたい。飛ぶラッセンの絵を想像して泣いたのは人生で初めてだ。

今日も誰かのかたっぽの靴が道路に落ちる瞬間があるのかと思うと、気が気じゃ無いのである。




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