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車移動について

 まず田舎に住んでいると、公共交通機関を使うことが非常に少ない。路線や本数も少ないし、いざ利用すると運賃が非常に高い。そもそも、政令指定都市から田舎に引っ越してきたぼくは驚いた。
 田舎に引っ越してきたぼくは移動手段として車を購入せねばならず、通勤や買い物等、ほとんどの場面で車を使っている。もう「車社会」の一員になって一年以上が経つが色々と気づきがあった。

 車による移動は他者を感じることがない、個人的な営みである。同乗者がいなければ車内には私一人である。公共交通機関による移動のように、他者の肩が触れ合うこともなく、他者の声が聞こえることも、他者の匂いがすることもない。車移動で感じることができるのは前の車、後ろの車…鉄の塊のみである。
 車内に流れるのは自分で選局したラジオか、自分が好きな音楽だ。耳障りの良いものだけが自分の耳に届く。良い意味でも悪い意味でも自分だけにカスタマイズされた空間が車内にはある。好みの音楽やインテリア等。
 車内は安全である。パーソナルスペースを他者に害されることがない。しかし他者を傷つけ、傷つけられる場合がある。交通事故だ。交通事故は望まないから、運転中は常に「安全」について考えなければならない。信号や標識に注目し歩行者に気を配り、周りの車の動きに注意する必要がある。もちろん常に安全について考えているわけではない。他のことを考えている場合もあるが「他のこと」が「安全」を上回ると事故につながってしまうかもしれない。だから頭のリソースは「他のこと」にあまり使うことはできない。
 「安全」について考えながらハンドルを握っている状態、他者はおらず、自分好みに考えられた空間の中で過ごし続けると自分が更新されることがない。自分とは異なる他者に触れることなく、自分が好きなものだけの空間に浸り続ける。頭のどこかで「安全」がチラついているから、何かについて深く考えることもできない。車に乗っている限り同じ自分の繰り返しで自分が更新されない。自分が腐っていくような感覚。最近そう感じることが多い。
 もちろん車を全否定するわけではなく、便利な面があることは認める。しかし車移動のみの生活を続けるのは考え直す必要がある、という話だ。ずっと自分が行き詰まっている感覚があったのは車移動も一因だったのかもしれない。明確な原因はわからないけれど、とりあえず環境を変えてみる。今日は休日だ。公共交通機関を使って移動してみよう。

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