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#43「続・本当のことを言わない国」


「言ってることとやってることが違うじゃねえか」


社会人になって毎日のように、周りの大人に対して思ったこと。

半年ほど前、自分が置かれた環境、会社、社会、
そして自分自身に絶望して休職した時に思ったこと。



世間で特に話題がない時に、ニュース番組で流れる国会の答弁。

野党が与党に対して言うこと。


「言っていることとやってることが違うじゃねえか」


人の言動の矛盾を批判して揚げ足を取るのがこの国の伝統文化なのだろうか。





以前、この記事の中で引用した言葉がある。

「本当のことを言わない国」

「あちこちオードリー」というテレビ番組の中で、オードリーの若林さんが放ったひとこと。
海外から日本に帰ってくる途中、飛行機の窓から日本という国が見えた時に、「本当のことを言わない国に着陸するんだな」と思ったのだそう。


この国から一度も飛び出したことがない自分のような人間に、偉そうなことは言えないが、この言葉を聞いた時にものすごく共感した。 

その時から約2年が経って、社会人として会社という組織に属し、今まで経験したことのないような規模のコミュニティにもまれ、ただ自分が怒られたくないというだけの感情で部下を適当な嘘で丸め込み、過労死ラインを超える月に250時間以上の残業をさせ、もちろんそれは記録上には残させない。

これは事実のほんの一部に過ぎないが、
そんな矛盾だらけの世界で1年間生きてみて、
当時と思ったことは変わらない。




教育はビジネスではない


“急に話が変わったな”と思うような見出し。

最近、社内で教育事業に関するアイデア募集があった。

「多様化」という言葉が世の中の至る所で都合よく使いまわされていることからもわかるように、目まぐるしい速度で世の中が変化している今日この頃。

その中で「教育」だけは、恒久的になくならないものであり、そこに新たなビジネスチャンスがあると思い、社会貢献という名の金稼ぎをしようと企んでいるのだろう。

なんの正義感からでもないが、大学で「教育学」をかじっていた人間として、「教育はビジネスではない」という持論を掲げている。


経済力のない子どもから直接金を巻き上げようとしているわけではないことくらいはもちろんわかる。

我が子のためを思う親心に漬け込み、そこからお金を頂戴しようとしている。

これも経済活動の一種だと思えばなんてことはないが、
「未来を担う子どもたちのため」などと調子の良いことを掲げていて、結局は金儲けのためなんじゃねえかというのが頭をよぎると、

「言ってることとやってることが違うじゃねえか」

と思ってしまう。



この思いが頭から離れず、社内での教育事業のアイデア募集に対して、前向きになれなかった。

それでも、自分の見栄と評価のためにいくつかアイデアを提出した。

「言ってることとやってることが違うじゃねえか」




これからの教育に求められるものとは


子どもたちの能力を伸ばすための活動で、特にこれからの時代で流行りそうなものを見極めて投資していく。

社内で今回の募集がされた際の資料を見ていて、なんとなくそういう印象を受けた。
具体例を挙げると、海外で活躍するサッカー選手を育成するための団体を支援していくなど、すでに存在していてなんとなくイメージができるものである。

決してこれが悪いわけではなく、
なんか自分たちがやるべきことはこれではないような気がして、
それがずっと引っかかっている。




クリティカルシンキング(批判的思考)


私が受講していたある講義の担当教授が、毎回の授業で口癖のように言っていた言葉がある。

「“なぜ”という疑問を…」


なぜこれほどに印象に残っているかというと、
“なぜ”のイントネーションが、

なぜ⤵︎ ではなくて なぜ⤴︎ だったからである。 

その教授は中東の国の出身で、日本の教育に惹かれて学生時代から日本で過ごし、研究者になられた方である。

授業も日本語で行うほどにペラペラなのに、ところどころでイントネーションが引っかかって、授業がおもしろかった。

この“なぜ”のイントネーションも、友人たちとよく真似して遊んでいた。


そんなことはさておき、
この先生は日本の教育において、「なぜ?」という疑問を持つことが必要だということを常々力説されている。

教育学用語的にいうと、「クリティカルシンキング(批判的思考)」を育成すべきだということである。

学生時代も薄々感じていたが、社会人になってもなお、周りの人間を見ていて、「批判的思考力」がない人があまりにも多いことに気づいた。

特段、自分がその力に長けているとは思わないが、この日本という国において、平均よりはその力を持っているのではないかと思う。


そうでなければ、こんな文章を書かない。



就職活動をしていた頃、「テレビ屋気取り」という超自己満足な連載をしていた。
半年ほど前に休職して、すっかり自分に自信を失ってからは、
「こんな自分が偉そうに語れることはない」
と思い、エンタメコンテンツを批評することはなくなった。


何者でもないのに理想だけを掲げて、
それでも理不尽に押し潰されて、たいしたことも成し遂げていないのにエンタメを語る資格はない。


ただ、エンタメコンテンツを摂取することは相変わらず好きで、働き方が変わり時間ができてからは以前よりも映画館に足を運ぶようになった。


今回この文章を書こうと思ったのは、ある映画を観て、思うことがあったから。



少女は卒業しない


この投稿を書き始めて3週間ほどが経過してしまった。
(下書きに残したまま放置…)

書き始めた時点でも、この映画を観てから1ヶ月ほどが経過していたが、朝井リョウさんによる原作が映画化された青春物語が心に刺さった。

原作を読んだことはなかったが、予告編を見て気になったため映画館に足を運び、自分としては珍しく2回劇場でこの映画を鑑賞した。

他人に誇れるような“青春”を送れなかったからなのか、考えさせられることがたくさんあった。

自分もこんな青春を送れたらよかったのに。

そんな単純な感情ではない気がする。
登場人物たちのように、自分たちが置かれた現状に不満と疑問を持ち、将来に対して不安とほんの少しの希望を抱いていただろうか。

自分は自分で、当時いろいろなことに悩んだり苦しんでいたりしたのだろうが、今となってそれを思い出すことはできない。

でも、この映画の登場人物たちは、大人になってからもこの“濃い”日々を思い出して前を向くことができるのだろう。

なんてことを想像していたら、登場人物たちが羨ましく思えた。




14歳の栞


もう1本、同時期に見たのが「14歳の栞」という映画。

とある中学校の14歳の中学生たちを映し出した「青春リアル映画」。

この予告編の最後にもあるが、
ある生徒が「“こんな大人になりたくない”ってある?」という質問に対して、「社畜」と答えた場面が印象に残っている。

これは単におもしろい受け答えの場面としてインパクトがあるわけではなく、大人として考えなければならない場面だと思った。

全員がそうではないが、ここに登場した中学生の多くは、大人になることに希望を感じていないように思えた。

自分は当時どうだったかを思い返してみた。
少なくとも将来に絶望はしていなかったと思うが、うっすらと「こんな大人たちにはなりたくない」という思いが自分の中であって、その感情だけで何者かになりたくてもがいていたような気がする。

そして、この中学生がなりたくないと言っている「社畜」になりかけている。社畜でもいいから誰かに認められたくて、いまだに漠然とした何者かになりたいと思っている自分がいる。




今の教育に何が必要なのか?


どちらの映画を観ても、若い世代が将来に希望を抱いていないように感じた。
これが勝手な自分の解釈なだけだったら問題ないのだが、もしこれが今の学生たちを象徴しているのだとしたら、先に触れたような「教育事業」は、こういう子どもたちが希望を持てるようなきっかけを作ることではないかと思う。

「将来はこんなことをやってみたい」
「将来はこんな大人になってみたい」
「将来はこんな世の中になったらいいな」
「将来は自分がこんな社会にしてみたい」


SNSで誰でも情報を発信でき、それをキャッチできる時代だからこそ、
フィクションでもノンフィクションでも、魅力的な人や物事に誰よりも鋭くアンテナを張り、伝えていくことが我々の仕事ではないか。


そんな思いを心に閉じ込め、
今日も、数字・コンプラなどのしがらみを言い訳にして、
何も考えないし、動こうとしない。


「言ってることとやってることが違うじゃねえか」



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2023.05.08 作成

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