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小説における「開発力」

私は Nintendo Switch しか持っていないのですが、多分、同年代よりはゲームをしていると思います。とはいっても、『リングフィット アドベンチャー』ぐらいです。ちょっと前までは『大神』や『ドラゴンズドグマ』をやっていましたが、いまはしていません。『ドラゴンズドグマ』は黒呪島のダイモーンを倒す手前(異邦の落都)で怖くなって止めています。    そう、ヘタレなのです。

それはともかくとして、ゲームの会社について調べていると「開発力(りょく)」というキーワードが出てきます。これって、以外とわかりにくい言葉なんです。企画力であれば面白い商品を生み出す能力といえましょうし、マーケティング力であれば市場(消費者)のニーズに合わせた商品を生み出す能力といえるでしょう。しかし、開発力は難しい。さしあたり商品を創る力と定義できそうですが、どのメーカーも創ることはできるはずなので差別化ができるのか疑問です。面白いゲームを創る力というのなら、開発力というよりも企画力といったほうが妥当でしょう。

そんな疑問を抱えたので、インターネットで調べてみました。そしたら、開発力の意味がなんとなく分かりました。いわく、開発力とは「複雑な操作をしてもバグが起きないゲームを創る力」だそうです。

バグというのはコンピュータープログラムのミスによってプレイヤーが考えられないことが起きることを指します。バグにはタイガー・ウッズが水の上を歩いて池ポチャしたボールを打つような微笑ましいものもあれば、ゲームの最中に強制終了になってそれまでの努力が水の泡という理不尽なものもあります。いずれにせよ、バグはゲームをしているひとにとってよいものではありません。

最近のゲームはオープンワールドといって、実際の世界のようにプレーできるゲームが多くなっています。こういったゲームでは、行ける場所と行けない場所の区別ができなかったり、立ち位置によってアクションの結果が異なったりすることが、ほんの少しですがストレスになります。リンゴを左手で取ろうとすると持てるのに、右手で取ろうとすると持てないなんてことが実生活であったら、イラッとしますよね。こういう不具合もバグと言えるでしょう。

このようなバグが繰り返されると、いくら面白くてもゲームを続ける気がなくなってしまいます。プレーヤーが理不尽な理由でゲームを止めるのを防ぐためにも開発力が必要になってくるのです。

開発力とは、複雑な操作をしてもバグが起きないゲームを創る力。インターネットで調べた定義づけが本当に正しいのかは疑問ですが、私には説得力を感じました。といいますのも、この開発力の定義を小説にあてはめるとしっくりと来たからです。

素人の小説にはバグが多く、「開発力」に問題がある作品が多いからです(私も素人ですが)。素人に限らず、小説を読んでいるとバグに遭遇することがあり、そうなると少しずつ読む気が失せてしまいます。

小説のバグで真っ先に思い浮かぶのが、誤字脱字です。一番見つけやすく、誰でもそれとはっきり分かるタイプのバグです。文章の書き方などという説法にも、下手な文章の例としてよく出てきます。基本中の基本をミスしているわけですからね。

しかしながら、意外と誤字脱字で読む気が失せることはさしてないのです。原稿用紙一枚分につき二、三カ所あるのならさすがに放り出したくなりますが、逆にそこまででなければ問題はありません。なぜなら、読み手が頭のなかで正しい言葉に修復することが簡単にできるからです。

問題なのは、作者が気づかないタイプのバグです。書き手は書くことに夢中なのか気がつかないのですが、読み手の立場になるといらいらとしてくる不具合です。読み進めていくうちに文章のおかしさに気づくわけですね。誤字脱字よりもこちらのほうが読むモチベーションに響きます。ですので、なるべくバグのない文章が読みたいなと思います。

このまま終わったら不親切すぎますので、いくつかバグの例を挙げます。

①不適切な表現:ある素人小説に「ハッカ色の空」という言葉がありました。私の感性が確かならば、これは間違った表現です。ハッカ色は平たく 言えば青緑です。つまり、作者は青緑色の空と言いたかったわけです。  でも、実際に、空が青緑になったことがあるのでしょうか? 私はないと 思います。というか、この表現が正しいかどうか「ハッカ色」を辞書で調べさせたことも、立派なバグなんですけどね。

②どうでもいい説明の連続:プロの純文学小説に、主人公が働いている場所についての説明がありました。5階建ての雑居ビルの2階で働いているとのことですが、小説ではほかの階のテナントも事細かに書かれていました。普通に考えれば、主人公が3階から上にあがることは考えられないにもかかわらずです。実際、3階から上はそれ以降、小説には出てきませんでした。このような明らかに無駄な文章はストーリーの進行を遅らせますし、小説の雰囲気作りにもなっていないので、読んでいてイライラしてきます。純粋に楽しませていないという点で、これもバグと言えるでしょう。

③くどい表現:修飾語の多い文章のくどさは比較的分かりやすいのですが、以下の例は意外と書き手は気づきにくい。「太郎は洞窟に入った。膝が震えた。ぬかるみに足を取られかけた。腕が震えた」みたいなものです。膝が震えたのだから、太郎が不安なのはすでに書かれているのに、また腕が震えたって書いているわけです。くどい。同じことは何度も言わなくても分かります。話が進むどころか、元に戻っているから、読んでいて徒労感を覚えます。サッカーでいうバックパスみたいなもので、話が上手くいっていないから、戻しちゃうんですよね。サッカーなら仕方ないです。でも、小説でそれをやると書き手が語りの主導権を得られなくなる、つまり、読み手が飽きてしまいます。これはもう、どうしようもないバグです。

以上、小説に起きるバグの例を挙げましたが、このようなバグは意外と純文学小説に多いんですよね。つまり、小説家の「開発力」はエンタメよりも純文学の方が低いように見えるのです。純文学の書き手はエンタメよりも筆力がある、と思われがちです。でも、バグの数は純文学のほうが多いです。というのも、バグは大抵、地の文で起こるからです。「開発力」がないのに自分の文章力を誇示しようとして、地の文を書き連ねる。その結果、バグだらけの文章が生まれている。そういう風になっている気がします。

「開発力」のなさは「文章の下手さ」というのとはまた違う種類のもののようです。バグの多い書き手の中には、論説文などでは非常に整理された文章を書かれる方も少なからずいて、ビジネスパーソンとして文章の書き方をよく学ばれている方が結構多いという印象を受けるからです(注1)。

小説の創作において必要な能力はたくさんあります。いろんなひとに訊けば、いろんな能力が挙げられるでしょう。しかし、「開発力」は出てこないのではないでしょうか? 面白く書くこと、とにかく文章を重ねることにこだわるがあまり、面白みを減らすようなバグを取り除くこと。ここに注意が向いていないのです。確かに面白い小説にすることは必要ですが、読み終わるまでに面白くないと判断されないことも同じぐらい大切です。もちろん、バグがなくても面白くないなら意味はありません。幸い、小説はゲームと違って、レトリックを使ってバグを効果的な表現にする技術も存在します。こうした技術を使って、面白くてバグのない、読み手をいらつかせない、 「開発力」のある作家が生まれてほしいと切に願います(注2)。


注1:「文章の書き方」や「上手い文章」で調べると、ビジネス文書やブログの書き方ばかりが出てきます。確かにあそこに書かれていることは正しいです。でも、読み手の能力を過小評価しすぎている指摘も多々あります。まあ、このへんは見た目か機能かというエセデザイン論に通じる問題で、ここで書くときりがないですね。

注2:開発力はストーリーにもあてはめられますが、ここはとりあえず、フィルムアート社から出ている『シド・フィールドの脚本術』や『ストーリー』などを参照していただく、と述べるに留めます。


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