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何も起きない小説から脱却しよう

文藝賞。落選が決まったかもしれないので、自分の応募作について思ったことを書き留めます。

いきなり話が逸れますが、昨年、文藝の坂上編集長が応募作について、次のようなコメントを残していました。

最初の文章はどうでもよくて、大事なのはカギ括弧の部分ですね。

「なにも変わらない日常をなにか書いてるふうでなにも書いてない」作品

いまにしてみれば、私が出した作品は編集者もしくは下読みの方々に「なにも書いていない」と評されてもおかしくないものだったと思えます。

日常を日常のまま書いているから、「なにも書いていない」と評されたのでしょう。

もちろん、私の書いた作品にも出来事はあります。でも、出来事というのは、ただ単に“起きた”ことじゃないんですよね

例えば、ひとが産まれて、成長して、大人になり、就職し、結婚し、子どもをもうけ、子どもが成人し、定年退職をし、おじいちゃん/おばあちゃんになり、そして亡くなる。そんな話があったとします。これらは確かに重要な人生のイベント=出来事です。でも、その出来事を単純に話したら、あたかも自然の摂理のように読み手には受け取られてしまいます。これではせっかくの“いい”人生を送られていても、小説としては台無しです。King Gnu ではないですが、三文小説にさえならない。ただの自分史止まりです。

端的に言えば、「最初のデートの話は二回目以降のデートの話よりも面白い」のです。もっと言うなら、デートよりも告白の話のほうが盛り上がる。なぜなら、“起こる”要素があるからです。

好きな異性に告白をすると相手に受け入れられるかもしれませんし、フラれるかもしれません。翌日の二人の関係性も以前とは違ったものになるでしょう。

でも、気心知れたカップルがデートしても、たいしたことは起きませんよね。関係性が深まったり傷がついたりする可能性は最初のデートよりは低い。すなわち、あえてストーリーとして語る価値がないということです。

“起こる”ことによってストーリーが生まれるんですね。その結果、小説で語られていることが自然の摂理ではなく、人工的に見えてくる。すなわち、作り話をアートに変化させる工夫が私の小説には足りなかったということです。

ストーリー展開のなさをごまかすために、本来不要なエピソードを入れた気もします。楽しいだけのデートの話は小説にはいらないんです。恋人との印象的な思い出は友だちと話す“恋バナ”にはなっても、赤の他人の気を引く“恋の話”にはなりません。相手はカップルの行動ではなく、恋のありように関心があるからです。

小説の場合はいくら面白いエピソードでも、それだけでは読者の関心をひけません。ストーリーを動かすには、何かが起きないといけないのです。

とはいうものの、私の小説には何かがきちんと“起きて”います。あるエピソードがあった後には登場人物の関係性が微妙に変化していますし、テーマの多面性も見せられています。間違いなく、ストーリーは動いています。私の小説には「何かが書かれている」のです。

にもかかわらず、どうして読者からは(おそらくですが)「なにも書いていない」と評されたのか。

理由は、“起きた”ことによって変化したはずの、登場人物の価値観の変化が書かれていないからです。私の小説では、シーンごとに登場人物の行動や態度を変化させていました。その一方で、なぜそのような行動や態度を取ったのかという部分が欠落していて、読者に“起きた”ことを気づかせないまま次のシークエンスに移ってしまっていたのです。

原因はフィルムアート社の映画脚本術をよく読んでいたからでしょう。その結果、どうしても創作のときに、小説ではなく脚本に適した思考回路になってしまうんです。

映画や舞台の脚本の場合は、心情の変化を読みとる面白さがあります。例えば、主人公の顔だけの映像が10~15秒続くショット。役者がきめ細かく表情の演技をすることで、鑑賞者は主人公の心情を細かく探ることができます。日本人の俳優にそのような才能のあるひとはいませんが、これは映画の醍醐味のひとつでもあります。

小説は映画と違って情報量が少ないので、登場人物の行動や態度から価値観の変化をつかむことは難しくなります。ですから、エピソード後の価値観の変化は、きちんと読者に知らせないといけないのです。読みとらせてはいけないのです。

一方で、登場人物の価値観の変化を植えつけて、行動や態度で琴線に触れさせることには長けています。映画の読みとは違って、小説の読みは価値観から行動を読ませる方向に持っていったほうが楽しめさせられます

今回の小説では、価値観を見せることを忘れていました。これでは登場人物の変化が読めず、そうなると、読者はエピソードで何かが“起きた”ことに気づかず、結果的に「なにも起きていない」「なにも書かれていない」と評されることになってしまいます。

何も起きない小説から脱却しなければ、読者に小説を読ませることはできない。そのことを肝に銘じて、創作に励んでいきたく思います。

【追記】
文藝賞に応募した作品は、落選作とはいえ、いままで書いた問題と、自分の癖(こそあど言葉が多い)を直せばもっと価値のある作品になる気がします。これから改稿して、納得がいく作品に仕上げられれば、また別の賞に送ってみます。初稿を送るのは悪手ですね。

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