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『あまろっく』を観ました ~感想~

前回、『あまろっく』の鑑賞を報告しました。あらすじなどはそちらに書いてありますので、ご参照いただけますとありがたいです。
今回は映画の感想について書き連ねてみます。

『あまろっく』は大衆演劇みたいな映画です。笑いあり涙あり、確かにその要素もあるのですが、それ以上に話の組み立て方が大衆演劇らしい。ここは巧妙であったと思うのです(ここから下の文章、まったく巧妙さをほめていないのですが)。

1.分かりやすい伏線

『あまろっく』にはいろいろな伏線が張られているのですが、そのどれもが分かりやすい。

特に分かりやすいのが、鉄工所の人々が「職人(佐川満男)がいなくなったら鉄工所はやっていけなくなる」という話題をするくだり。もちろん、その後、佐川満男は怪我をして病院に運ばれることになります。

主人公の父(笑福亭鶴瓶)が死ぬところでも、ランニングを始めてすぐに雨雲が出てくるので、雷に打たれてしまうのではと考えながら筋を追うことになります。まあ、監督によれば死因は心筋梗塞らしいのですが。

ここまでは、単純な分かりやすさなのですが、次の例は、関西人で創作をするひとなら絶対に見つけてほしい伏線です。これをリアルタイムで読めなければ、創作をする前にストーリーを見る方法を養うべきです。ある程度の「守備」ができなければ、攻撃力は身につかないものです。

それはさておき、伏線について説明をします。

冒頭、小学生とその両親がスワンボートで尼ロックを訪れるシーン。その最
初に出てきた「1994年」というテロップ。このテロップが伏線です。

これを見てすぐに、思いつくことはありませんか? 舞台は尼崎、阪神間です。

そう、1995年1月17日です。1994年というテロップを見ただけで、阪神大震災が映画のなかで重要な出来事として出てくると想像できます。

実際、映画の最終盤に主人公(江口のりこ)が改心して鉄工所を継ぐことになるきっかけとして阪神大震災のときの竜太郎(松尾諭)の話が出てきます。

映画を作ったひとは満を持して阪神大震災の話を引っ張ってきたのでしょうけれど、見ているこっちは「ようやく切り札を出してきたか」という印象です。冒頭に張られた伏線が1時間40分ぐらいしてようやく出てくるわけですから。それまでずっと、阪神大震災がどこかで出てくると思いながら観ています。出てきたときには「待たされたよ、やれやれ」といったところでした。

『あまろっく』にでてくるストーリーの伏線は、どれも映画をしっかり鑑賞するひとにはバレバレの手つきで張られています。しかし、その場その場を楽しみたいひとにとっては、こういう見え見えの伏線が回収されるのが快楽なんですよね。一杯食わされた! と。

馬鹿しくも思えますが、『あまろっく』ではこれが正解。大衆演劇は、観客を楽しませればいいのです。


2.「大衆」にまざっていくエリート

『あまろっく』のラストに感心しなかった鑑賞者は少なからずいると思います。主人公が鉄工所に勤めるのはまだしも、南雲(中林大樹)までそうなる必要はないだろうと。

主人公は京都大学卒で日系コンサルティング会社に勤務していたとはいえ、5年間も定職についていなかったので、鉄工所の副社長になるのは理解できる。しかし、南雲は京都大学卒で総合商社の社員。酒でつぶされた感じもないのに、アラフォーで鉄工所に勤務するなんてありえるでしょうか?

しかし、そこが大衆演劇の大衆演劇たるゆえん。大衆演劇では、エリートがエリートのままで終わったら、つまらないのです。面白くないの「つまらない」ではなく、胸くそ悪いの「つまらない」なのです。エリートが大衆のところに降りてきて(堕ちてではなく)、大衆はスカッとするのです。

まあ、こんなことを書きながら、実は、映画の中盤あたりから「この映画はどういう終わり方をするのだろうか?」とずっと不思議に思っていました。

主人公は鉄工所に勤務するだろう。これは「俺は我が家の尼ロックや」という台詞を連発してきた、父の竜太郎が亡くなった時点でほぼ確定になってしまった。
だけど、南雲はどうするのか?

『オッペンハイマー』のように映画の終盤になっていきなり“オッペンハイマーの名誉回復”がストーリーの“レーン”に浮かび上がってきて、それまでにいろんな“レーン”で語られてきたことが「オッペンハイマーの失脚から名誉回復に至る道筋」のためにあったかのように見せる。そんな仕掛けは『あまろっく』にあるはずがない。

ウルトラCが使えないなら、南雲を宙ぶらりんにするか南雲まで鉄工所で働かせるかのどっちかだと考えながら観ていました。でも、後者は禁じ手。さすがに現実性がなさすぎる。脚本家がこんなストーリーを編んではいけない。ここをどう避けるかが脚本家の腕の見せ所、と思ったのですが、やっちゃいましたね。

ラストは私は何度も首をかしげました。ですが、『あまろっく』が大衆演劇だと思えば、納得できました。ユリイカ! 風呂に入りながら『あまろっく』のラストについて考えていたら、公然わいせつ罪で逮捕されていたでしょう。

大衆演劇にエリートはいらんのです。エリートも大衆のなかにまじってこそ、大衆演劇の良さ。人類みな兄弟なのです。

これで南雲はおろか主人公までアラブ首長国連邦(横浜サポとしてはトラウマになっている固有名詞;ほんま勘弁してくれ)まで行ったらパンキッシュなんですけど、そういうのは純文学であって、大衆演劇ではないんですよね。そう思ったら、納得しました。いま納得したばかりなんですが。

3.まとめ?

ここまで好き勝手に書いてきましたが、実は、この映画、決してきらいではないんですよね。

これまでいくつかの自治体で町おこしのための映画がつくられてきましたけど、『あまろっく』はまさにうってつけなのではないでしょうか?

私の地元ではいまや某バラエティ番組の人気企画にレギュラーで出ている人気女優を主人公にした映画を制作しましたけれど、いまいちパッとしませんでした。その理由が、『あまろっく』で分かった気がします。

やっぱり、町おこしには大衆演劇のような観客がワッといいたくなるようなストーリーが大事なんですよね。登場人物に笑いたいし、涙したい。そういう演者と観客との感情的なつながりが、場のちから、ひいてはその劇場が持つちからを生み出すのだと思います。

私はこういう映画は決して観ることはないですし、自分の創作の参考になることはありませんが、でも、そういうのとはまったく別の軸で有意義だった時間を過ごせたと思います。

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