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大阪中之島美術館『テート美術館展』感想

注:今回は、美術作品について説明はしませんのでご注意ください。

文化の日に大阪中之島美術館に行ってきました。どうやら関西でも展覧会に足を運ばれるひとが増えたみたいで、かなりの混雑でした。

長沢芦雪の展覧会も観ましたが、今回は『テート美術館展』について感想を言います。

国際巡回展とのことですが、なにをやりたいのかさっぱり分からない展覧会でした。「光」という抽象的な言葉でけむに巻いた感が否めません。

考えてみれば、光というテーマは馬鹿馬鹿しく思えます。美術は基本的に“網膜的”なものですから、光がなかったら美術作品は存在しないに等しい(美術作品は目に見えるからこそ機能する、ということです)。それなのに光をテーマに据えるのですから、きちんとしたコンセプトメイキングが必要です。

例えば、ユージーン・スタジオの「想像」(東京都現代美術館の個展に出てきた暗闇の部屋)やホンマタカシのカメラ・オブスクラなど、光が美術にとってエッセンシャルな存在であることを知らしめる作品であれば、光をテーマとする意義は分かります。

ところが、本展では光を扱った作品が何点かあるだけで、「光」とはなにか? を感じさせる展示はほとんどありませんでした。それなのに、光がテーマ。これでは、水にこだわったプールとか、火が売りの焼肉屋さんみたいなものです。

全体的なレビューに話を進めます。

イギリス政府系の美術団体(日本で独立行政法人国立美術館)の協力を得た展覧会ということもあって、前半の展示はイギリス人作家のものがほとんどでした。

イギリス美術はヨーロッパ大陸の諸国とは異なる発展を遂げました。同じ島国でも、日本美術は断続的に中国からの影響を受けています。本展の下のフロアで展観されていた長沢芦雪もそうです。近世後期の画家らしく、清朝の絵画の影響を受けた作品が多くありました。

日本の画家に対してイギリスの画家、ウィリアム・ブレイク、ターナー、コンスタブル、ラファエル前派は画題、画風どれも独特です。ルネサンスがあって、バロック、古典主義、ロココ、新古典主義、ロマン主義、写実主義があって印象主義という、ヨーロッパ芸術の流れをまったくくんでいないのです。こうしたイギリス美術の系譜を追うという経験をしたのは、初めてのことでした。

ところが、展覧会の後半になるとイギリスの作家はあまり見られなくなります。デンマークやドイツの芸術の作品が多くを占めるようになります。ハマスホイや新興写真、バウハウス、ジュリアン・オピー、リヒター、ライリー、オラファー・エリアソン……。あまりに統一感のない展示でなんだかなあと思っていたら、ある共通点に気づきました。

展示されていた作品のほとんどが、ここ数年のうちに日本で特別展のあった作家によるものだったのです。2018年にライリー、2019年にオピーとバウハウス、2020年にはハマスホイとオラファー・エリアソン、2022年にリヒター。偶然にしてはできすぎています。

主催者は「大阪でハマスホイやリヒター、オラファー・エリアソンの作品が見れる!」といわれてはしゃぐひとを、この展覧会の主要顧客にしようとしているんでしょう。確かに、「関西飛ばし」をなげく美術ファンはたくさんいます。私のように、よい展覧会があれば東京に遠征するひとなんてそうはいませんから。

他人の美術鑑賞スタイルに文句をいうのはおかしいのは承知していますが、展覧会に興味があるひとのために作品を見せるという展覧会のあり方や、美術鑑賞の仕方に違和感を禁じえません。

以前に話題になっていた展覧会の作品を見てカタルシスを感じることは、わが国のここ最近の展覧会の動向を観ているに過ぎません。美術作品そのものが鑑賞者の「目」から置き去りになっているのです。

「あの展覧会のチラシに書かれていたとおり、ハマスホイの作品からは静謐さが漂う」とか「ようやくこの芸術家の作品と巡り会えた」などと感動して終わるのはイベントの消費でしかない気がします。

ハマスホイの静謐さはどこからくるのか、エリアソンはどのような意図を持ってジオデジックドームを組み合わせたインスタレーションを制作したのかなどを鑑賞者に考えさせる機会を与えてほしかったですね。

美術を鑑賞するというのは誰かから与えられた答えをもとになにかを見ることではなく、美術作品に込められた問いかけを探して自分で答えを見つけるものだと思います。

テートの協力による展覧会が美術鑑賞の楽しみをおざなりにした、単なるイベントになってしまったのは残念でなりません。ただ、これがいまの展覧会の流れではあります。

京都市京セラ美術館で開催されているMUCA展はその最たるものです(注)。MUCA展で感想を調べれば、「バンクシーが観られた!」とか「KAWS最高!」とかそんなコメントばっかり。アイドルというか、アイコンを追いかけたいだけなんですよね。

まあ、この話はここでやめましょう。いまの展覧会業界の話をしたところで実りはありません。業界のことよりも、優れた作品について語るほうがよっぽど実りがあります。

誰かの受け売りではなく、作品からきちんと問いを受け取り、自分の知識で言葉をアウトプットする。自分にできることはこれだけ。でも、それが美術鑑賞にとって重要な営みだし、草の根でやっていくべきことでもある。

会期が終わると大量廃棄される展覧会グッズたちを横目で見ながら、私はそのように思いました。


注:MUCA展は、反権力志向の人間の権威主義がものすごく悪趣味だった。特に、バンクシー。ライフジャケットの作品はあざとすぎて、気分が悪くなった。キャプションを読まなくても、アフリカからイタリアに渡ってくる移民のことをテーマにしているのが分かる。あれを印象的ってほざいてるやつ、いままで現代美術のなにを見てきたの? こんな「反権力ごっこ」をしてる作品なら、横浜美術館でアイ・ウェイ・ウェイがやってたじゃないか。こいつらが“美術界の権威”とやらを馬鹿にするのは結構だけど、威張ってる連中がこんなつまらないものでいちいち感動してくれると思うなよ。
権威とと争ったり認めてもらったりすることよりも、いかに権威にのみ込まれるかを考えるべきなんだよ。村上隆のようにね。

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