批評と批評家(前編)

昨日のエントリー『朝日新聞 文芸時評について』を書きましたが、本来はこのテーマについて話をしたかったのです。

先日の朝日新聞の文芸時評はテキストをおざなりに読んで深い読みをしたことが問題となりました。前のエントリーにも書いた通り、鴻巣さんがああいう読み方をすることは以前にもあったので、何ら驚きはありませんでした。文芸時評というフォーマットが理由では? との声もありましたが、当欄以外の文芸時評はわりかしまともだったと思います。

むしろ私が驚いたのは鴻巣さんの論評スタイルが「文学の世界だけに許された特別ルール」ではなかったことです。私はそれまで、文壇ではああした勝手解釈が許されているものだと思っていました。今回の桜庭さんの批判によってそれがただの非常識であったことを知り、私は半ばうろたえてしまいまったのです。暗黙の了解だと思われていたものがそうではないという衝撃。

話がそれました。実を言いますと、上記のような「それまでの暗黙の了解だと思っていた『おかしなこと』が実はただの非常識だった」衝撃を現代美術の世界でも受けていまして、それで今回、ここで書かせていただくことにいたしました。

今年の春、京都市京セラ美術館で『平成美術』という展覧会が行われていました。展覧会の企画を手がけたのは、美術評論家で有名な椹木野衣さんでした。この方は『日本・現代・美術』などの美術論の書籍や1999年に水戸芸術館で開かれた『日本ゼロ年展』の企画もしたことでも知られています。椹木さんは著作活動やキュレーションを通じて、当時の若者、いまの50代前後の現代美術家に大きな影響を与えました。

『平成美術』はおそらくは、令和版『日本ゼロ年展』として企画されたものと思われます(注1)。コンセプトや展示作家が異なるとはいえ、椹木さんの思想が大いに反映されたというところは共通しています。日本現代美術をドメスティックに見るためにあえて「平成」という元号を使い(注2)、出展作家もコレクティブ(注3)が中心になっていて、椹木さんらしい、かなり「癖の強い」展覧会でありました。

私は『平成美術』については、いささか批判的でありました。展覧会の内容以前に、タイトルがおかしい。現代美術は国境を越えて影響を受け合う業界ですから、展覧会の名称に和暦を用いることには抵抗を感じました。展覧会を見た後も、悪い意味で驚かされることが多く有りました。作家個人ではなくコレクティブばかりが選ばれていること。紹介された作家の年代がほとんど同じであること。そして何より、女性作家の作品がほとんど紹介されてないこと。これでは現代美術の動向なんて説明できるはずがありません。国立国際美術館の学芸員が企画する展覧会のほうがよっぽど思索的で得るものが多いです。

それでも、私はそれなりに納得して展覧会場を後にしました。椹木さんは美術評論家ではなく美術思想家なので、そこまで学術的にこだわる必要はないのかなと思っていたからです。京都市京セラ美術館がそれでよいというのなら、それでよいだろうと私は判断しました(注4)。

先ほど椹木さんの肩書きを美術評論家と書きましたが、それは世間一般ではそう思われているからに過ぎません。椹木さんは本質的には思想家なんです。椹木さんが書かれたものの多くは反証が難しく、学術的根拠の乏しいものが多いです。これらは評論ではなく、思想と呼んだほうが適切です。

評論家であれば、結論とそれに至る論拠をきちんと説明し、誰かがその論拠を反証できるようにしておかなければなりません。その論拠をテクスト(芸術作品)にするか、テクスト外(作家のほかの芸術作品、同時代の芸術作品、作家の生い立ち、社会背景など)にするかは批評家の独創性に委ねられますが、いずれにせよ、批評には反証可能な論拠が必要なのです。

美術やアートというとすぐに「感性」が大事というひとがいますが、一番大切なのは「学び」です。ゴッホの絵画もハーグ派やバルビゾン派、新印象派からの影響なくして生まれることはなかったでしょう。創作には独自の感性以上に、何をどう学ぶかが重要な位置を占めます。

それゆえ、美術をめぐる研究にも学術的な手法が求められます。そのため、美術の論評に「感想」や「思想」を付す場合は、論拠が必要になります。論拠のないものはただのスケッチであり、論評とはいえません。

椹木さんは現代美術などを観たスケッチをもとに、ご自身の理論を組み立てるタイプの思想家です。自分の生活経験や観察をもとに理論を作り出す、社会学者のような感じです。こうした理論には学術的が乏しい一方で、示唆に富む部分もあるので、実務的、娯楽的には一定の需要はあります。社会学者の事細かな描写が誰かの社会をのぞき見する快楽を提供するように、です。

私は美術の世界でそうした需要があるだろうから、今回の『平成美術』が批判されていないのだろうと思っていました。本来、学術的根拠に欠けた美術展は私には許しがたいものですが(そこに国公立と私立の区別はありません)、美術の世界がこれを暗黙の了解として認めているものだとつい最近まで思っていたのです。

ところが、閉幕から4ヶ月と少し後の8月18日、『平成美術』への批判が新聞上で掲載され、いくばくかの問題が起きました。荒木夏実さんが朝日新聞GLOBEにおいて『女性不在、男性中心の展示…「平成美術」に私が抱いた抵抗感』というコラムを発表されました。

荒木さんは椹木さんと同じ肩書きである美術評論家兼キュレーター兼大学教員ですが経歴がまったく異なります。椹木さんは大学(学士)卒業後、美術雑誌の編集者を経て「美術評論家」になられました。一方、荒木さんは外国の大学院を卒業された後、二つの美術館で学芸員を歴任された、バリバリのアカデミシャンです。これほどキャリアに違いがありますので、荒木さんがアカデミズムな手法を使わない椹木さんのキュレーションに我慢できないのも無理からぬことだと私は思いました。

ただ、このような正統派かつアカデミックな学芸員やキュレーターが、椹木さんの展覧会を真っ正面から批判することはいままで見たことがありませんでした。そのせいで、私は椹木さんの論評スタイルやキュレーションが「美術の世界で許された特別ルール」だと永らく認識しておりました。いままで当然されるべきだった批判が、いまになってようやく行われた。このことがただただ新鮮な驚きだったのです。


※後編は来週ぐらいに書きます。ていうか、これだけで3000字とはなんたること。


注1:『平成美術』の図録のカバーが何枚かのポストカードになっていて、それを図録内の空欄部分に貼り付けることで図録が完成するという仕組みは、『日本ゼロ年展』の図録にも採用されたものだそうです。後者の図録は持っていないので、私からは断言できかねますが。

注2:椹木さんはバリバリの左翼思想の持ち主です。にもかかわらず(?)、現代美術の有りようを平成年間だけに切り離しました。そのせいで、椹木さんを右翼や保守であるかのように勘違いする論評が後を絶ちませんでした。こうして「左派」は内部崩壊するのですね。

注3:コレクティブとは複数の芸術家によるユニットです。音楽でいう、ロックバンドみたいなものです。

注4:田中功起さんは『平成美術』のような公共性に欠けた展覧会を公立美術館で行うべきではないとおっしゃっていましたが、私はそれには賛成しません。庵野秀明さんの展覧会はどう考えても公共性はないでしょう。でも、興行的価値や学術的価値はあるとは思います。そうした公益性が期待できるのであれば、たとえ公共性に乏しくても展覧会が行われてしかるべきです。公共性を基準にすると、ほとんどの展覧会がダメになります。美術好きしか観られない、学術的価値の高い展覧会だって、公共性ゼロになりますしね。

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