見出し画像

現代なき「現代性」 それはつまり、ディストピア ~泉太郎展感想~

泉太郎の作品は理解しがたいものが多く、国立国際美術館や東京都現代美術館の展示を観るたびに戸惑ったものです。

けれども、それらの展覧会とくらべて、本展はいささか理解しやすい展覧会であったと思います。

本展は、ただ単に美術を観る展覧会ではありません。係員が指定した服を着ることで観られる立場になりますし、鑑賞者に特殊な体験を強いることもあります。本展で美術を体験する手順は以下の通りです。
文字では分からないかもしれないので、美術手帖の記事のリンクを張ります。

①入場した鑑賞者は係員に白い「マント」を渡されて、これを羽織るように指示されます。
②白くて重いマントでホワイトキューブの壁に「変装」した後、最初の展示室に入ります。
③手持ちのスマートフォンで展示室の椅子にあるQRコードを撮影して、約17分の女性のひそひそ話と男性のぼやきを聞きます。
④展示室内のいくつかの作品を見た後、最初の展示室を出て、「マント」を脱ぎます。「マント」はロッカーに入れずに、手に持ちます。
⑤最後の展示室に行きます。その途中に、黒いパイプがあるので、それを取ります。
⑥最後の展示室に入ると、「マント」をひっくり返し、パイプを支柱とすることで「テント」にします。オヤジギャグですね。
⑦次に、番号が書かれた素焼きの札を手に取って、その番号をウェイティンボードに記します。しばらくすると、番号が呼ばれるので、それまで、自分がつくった「テント」で待ちます。
⑧番号が呼ばれると、最初の展示室の奥にあった宇宙船みたいなものに乗って、VR体験をします。

まるで指示書の通りに作品を並べるのと同じように、鑑賞者は係員からの指示を受けて自分自身が作品となるわけです。美術鑑賞ではなく、美術体験といったほうがいいかもしれません。体験といっても、美術作品を創る体験ではなく美術作品として創られる体験です。美術作品として観られる側になる体験ともいえるでしょう。

本展には美術鑑賞にありがちな「観る、観られる」の関係をくずしたいという意図があるのかもしれません。鑑賞者は必ずしも観るだけでは駄目で、鑑賞者みずから作品となり、ほかの鑑賞者に観られる。もっといえば、美術館の一部になるということです。そうすることで、観られる側にも立つ。

私はあまり納得いきませんでした。わざわざ鑑賞者に無理強いをしなくても、鑑賞者が美術作品になる体験はほかの作品でもできます。レアンドロ・エルリッヒはまさにそうですね。

参加型の美術作品では、参加しているひと=鑑賞者に観られるひとがいてはじめて作品として成り立つものがほとんどです。「観る、観られる」の関係を考えさせる作品があまたあるなか、固くて重たい布を着てまで作品に参加する意義がいまいち理解できませんでした。

こんなふうに、考えれば考えるたびに、本展において作者がやキーワードには「穴」が見えてきます。

例えば、白い「マント」を着るのは美術館の壁に擬態することだと主張しているけれども、そもそも、頻繁に動いている物体が空間に変装するっておかしくないですか? 迷彩服や昆虫の保護色は動いていないときに機能するわけです。鑑賞者がうろつけば、いくら全身を白く塗りたくっても、擬態なんてできるはずがない。それを証拠に周囲をうろついている鑑賞者だって、本気で擬態していない。擬態しているふりをして擬態している。そのような、行為は無意味ではないしょうか?

最初の女の子がささやく「あなたの再野生化」も気になりました。野生とは何か、その対義語たる飼育や培養とは何か? それがまったく見えてきませんでした。確かに、同じ展示室には工藤哲巳を思わせる作品がありました。工藤哲巳といえば、人間は文明に養殖された存在と考え、ディストピア(本当は単純にそのような言葉を使ってはいけないのですが)を思わせる作品群を制作してきた作家です。

泉太郎には工藤哲巳のような深みはない。それはなぜか。現代性をテーマにしているのに、現代のありようが下敷きになっていないからです。

工藤哲巳は放射能による環境汚染を出発点に人間と文明、機械、自然の現状をアサンブラージュのかたちにまとめあげました。ところが、泉太郎の作品にある「再野生化」にはその思想のもとになる現代の姿がまったく見えないし、本人もそれを語らない。だから、似たような作品であっても受け止められる重みがまったく違うのです。

泉太郎は「再野生化」という言葉をカジュアルに使いすぎていないか? 人間の生活には野生の対義語である、飼育(教育)や培養(社会福祉など)が身近にあります。工藤哲巳はそこに気づいていて、泉太郎はまったく自然のものとして受け流している。その違いが作品に現れているのです。

もしこの「再野生化」が美術鑑賞に限った話だとしても、「感性を解き放て」みたいな安っぽいキャッチコピーに収束しそうにも思えました。

いちいち例を挙げるとキリがないので、泉太郎の作品にあるおかしなところはここで指摘をやめておきます。

ちょっと先走ってしまいましたが、本展をみて違和感を抱いたのが、作品は現代的なテーマを付与しているのに、そのもとになる現代がまったく透けて見えないところです。

美術でもなんでもそうですが、現代を描くには「現代性」と「現実」がセットで表現されていないといけません。現実を描いても現代性がしょうもなければただの野次馬根性でしかないですし(金○ひとみの「純文学」みたいに)、現実を反映しないまま現代性をテーマに制作した作品はまったく説得力のない妄想や陰謀論の域を出ません。

泉太郎の作品は、現代美術において対になるべきもののうちの片一方が欠落している状態で展示されているのです。実際にこんなものがあるのかどうか分かりませんが、+極しかない乾電池とか、決してつながらない電話とか、対岸に渡れない片持ちの橋とか。泉太郎の作品はそうした物体のように、機能していないのです。

こういう作品は決して難解なのではなく、ただの空虚です。

難解な作品というのは、機能はしているがどのように役に立つか分からないものを指します。先ほどのようにガラクタの例を挙げれば、モーターがそれにあたります。電気を入れればきちんと作動するから、これだけでは何の役にも立たないけれど、何かの部品としてなら役に立つ。でも、その何かが分からない。だから、難解なのです。難解な作品は、ひとつの作品のなかで意味作用を機能させなければならないのです。そうしないと、憶測や思いつきだけで「分かった!」と言ってしまうひとが出てきます。彼ら彼女らは同じ裸でもアルキメデスではなく裸の王様です。

作家は『わからなさと向き合う芸術』をモットーにしているようですが、分かるように機能しようとしていないものは最初から分かりようがないのではありません。これでは、作家はわからなさに寄り添っているというよりかは、「どうせ誰も分からない」という上から目線で作品をつくっているように見えます。作家がステートメントをあてにするなと自らメタフィクションのようにのたまうのも、そのような姿勢の表れに見えます。

同じような傾向は最近の純文学にもよく観られます。反政府的な作品を「ディストピア文学」とたたえる風潮です。こうした作品の多くが現実を直視せず陰謀論めいた物語で終始しています。鴻巣友希子は「ディストピア」という言葉を乱発する傾向にあります。

ここに挙げられている『1984年』や『侍女の物語』は確かに、現実社会を下敷きにしています。前者はファシズム、後者はウーマン・リブとそこから端を発した第二波フェミニズムです。しかし、これらの作品はテーマのもととなった思想に内在する問題点や矛盾点を暴き出すことが主眼となっているのであって、ストーリー上の絶望的な状況はあくまでスタイルに過ぎません。そのスタイルだけを表面的にすくいとって、「ディストピア文学だ」などというのはあまりに浅はかです。

ディストピア文学というレッテルを貼ることで、きちんと描かれた「現代と現代性の関係」が読めなくなる可能性があります。小説が設定する「現代性」を読むことで、反体制派のなかで共有しているイメージとしての「現実」まで読んでしまうせいで、作家が生の現実をどのようにとらえているのかがどうでもよくなってしまうのです。こうした読み方をして、現代文学からどのような現代が読み取れるでしょうか? また、こうした読み手に迎合した作家たちが本当に現代をとらえた現代文学や現代美術をつくることが可能でしょうか?

現代を描いた作品を見るときには、現代と現代性の両方が視野に入るようにしなければなりません。そうしないと、現実離れした現代性を称賛するという、馬鹿げたことをしてしまいかねないのです。

泉太郎の展覧会で、最後の白く広大な展示室に黒いテントが並べられていました。それは月面に並び立つ墓標のように見えて、確かにディストピアではありませいた。しかし、これもまた、現実感のない現代性の表現に過ぎません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?