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小説の一行開けについて その1 ~一行開けはテレビドラマのコマーシャル~

私は何気なく小説の一行開けを使っていたのですが、文藝賞に落ちたことを機に、「“一行開け”の問題について、もっと考えないといけないな」と思い至りました。

“一行開け”というのは作り手が物語の場面を切り替えたことを読み手に知らせるために、一行だけ空白を入れることを指します。例えば、「学校で友だちと話しているシーン」から「自分の部屋でひとり考えごとをするシーン」に移りたいとき、シーンの区切りとして空白の行を挿入する。これが“一行開け”です。小説を創作していると、ついつい使ってしまいたくなるんですよね。

この一行開けに対して苦言を呈する方がいらっしゃいます。文芸評論家の杉江松恋さんです。杉江さんはとある新人賞の下読みされているのですが、昨年、新人賞の応募作を読むかたわらで作品についていろいろとtwitterでつぶやかれていました。以下に、そのまとめがあります。

杉江さんのコメントは的を射ているものが多いのですが、そのなかで、ひとつだけ疑問に思っていたものがありました。

正直なところ、いまでも杉江さんがこのツイートでおっしゃりたいことは私には分かりません。

ただ、文藝賞に応募した自分の作品を読み直していて、一行開けを簡単に使うことで読者が小説に関心を持たなくなるおそれがあることに気がつきました。

小説の“一行開け”は、演劇でいうところの“幕”、テレビドラマでいうところの“テレビコマーシャル”にあたります。書いていると意外と気づかないのですが、読む/見る側に立ってみると、これを多用することで話の流れが細切れになってつまらなくなってしまうことに気づきます。

普通に考えれば、シーンひとつ終わったところでコマーシャルに入るテレビドラマなんて観たくないはずです。60分ほどのエピソードに10回ぐらいコマーシャルが挟まれたら、どんな面白いドラマでもチャンネルを変えられるでしょう。

逆に言えば、“一行開け”を感じさせないようにすれば、作品の魅力度も高まるといえます。

ドイツのサスペンスドラマ、『バビロン・ベルリン』はひとつのエピソードが大体50分くらいですが、最初から最後まで見ていられます。商店人物がめまぐるしく変わるドラマですが、テレビコマーシャルが入りそうなはっきりとした幕切れになかなか気づきません。

漫画のAKIRAもすごいですね。週刊少年マガジンに連載されていた漫画なのですが、単行本で読むと切れ目になりそうなところがほとんどありません。当時のことは分かりませんが、週刊漫画雑誌は1話20ページ前後になっています。1話1話を単純に並べただけだと、単行本を読むときに話が途切れ途切れになってしまうはずです。にもかかわらず、AKIRAはそうなっていない。話が途切れないので、一度没入したら最後、読み切るまでページから目を離すことができなくなってしまいます。

“一行開け”を我慢して分厚い話を作り上げる。なかなかできないことではありますが、次回からはなるべく“一行開け”をしないように話を進めていければと思います。

【追記】
まあ、例外に“一行開け”を多用している人気小説に『かがみの孤城』というのがありますね。個人的には好きな小説ではないですが。誰かが指摘しているように、オオカミ様は『ぼくらの』のコエムシに似ています。この作者は鬼頭莫宏が好きなのだろうか?


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