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京都文学賞中高生部門最優秀賞受賞作 高野知宙 『ちとせ』 感想

高野知宙 さんの『ちとせ』という小説を読んだので、感想を書きます。
タイトルにもありますように、京都文学賞の中高生部門で最優秀賞を受賞した作品です。

京都文学賞には一般部門と中高生部門と外国人部門があります。一般部門の最優秀賞は出版化されるのですが、高野さんが受賞した中高生部門の副賞には出版化はありませんでした。にもかかわらず、小説が書籍になったのですから、この小説がどれだけ期待を持って世に出されたかが分かると思います。

本作品に苦言を呈する内容がありますが、1,700円を出してまで買う価値のある小説であるとは思っています。

多くのひとが評価されているとおり、筆力には素晴らしいものがあります。文章表現が多彩で、描写に過不足がありません。描写は少なすぎると読みごたえがなくなりますし、多すぎると作者がなにを伝えたいのか分からなくなります。本作品ではそのような“引っかかり”がほとんどありませんでした。

17歳という作者の年齢、またプロか素人かに関係なく、これだけバランスよく書き切ることは難しいものだと思います。少なくとも、私にはできません。

本題に入る前に、あらすじを紹介します。あらすじなので、ネタバレを大いに含みます。

舞台は明治初期の京都。すでに明治天皇が東京に「行幸」し、京都は天皇さんのいる都市ではなくなりました。その代わりに、第一回京都博覧会が開催され、京都は近代化の機運が高まります。
主人公のちとせは、丹後生まれの十四歳の少女。天然痘にかかり、一命を取り留めますが、視力は落ち、失明の危機にさらされます。ちとせはあることがきっかけで、料亭で仲居の仕事をしているお菊とともに暮らしています。ちとせはお菊から三味線を教えてもらっています。
ちとせは時々、鴨川で三味線を弾いているのですが、ある日、人力車のお店を経営している美濃屋の息子、藤之助に声をかけられます。
ちとせと藤之助はそれぞれに悩みを抱えています。ちとせはなかなか自分の満足のいく音が出せません。藤之助は美濃屋の跡取りとしての「自覚」を強要する母親と対立しています。藤之助は自ら人力車を引いているのですが、母親はこれを跡取りの望ましい姿ではないと考えています。
お菊はちとせに、京都の外れにある山寺に行って、座頭(禿頭で盲目のひと)に三味線を教えてもらうことを提案します。しかし、ちとせはかたくなに拒みます。目の見えない座頭と三味線を弾くことが怖かったのです。
祇園祭の日、ちとせは藤之助の家に呼ばれます。お菊はちとせひとりを他人の家に上がり込ませるわけにはいかないので、ちとせについて行くことにします。お菊はそこで図らずも美濃屋の主人と顔を合わせます(終盤になって二人の関係が明かされます。端的にいうと、お菊にとって美濃屋は恩人ではあるのですが、美濃屋の失言をきっかけに三味線をやめることになります)。
ちとせは自分の奏でたい音を見つけたことをきっかけに、座頭のもとで三味線を教わることを決意します。座頭の三味線を聞いたちとせは、その深みのある音に、自分の目指すものを見いだします。
美濃屋の主人がお菊のもとに行き、失言の“償い”のためにお菊とちとせが舞台で三味線を弾くことを提案します。お菊は人前で三味線を弾くことを拒みます。美濃屋の主人はそれならばと、ちとせだけでも舞台に上がるようお願いをします。
藤之助はちとせを尋ね、最後のお客として彼女を人力車に乗せて京都中を駆け回ります。母親との約束で人力車を引くことをやめることにしたのです。ちとせを人力車から下ろした後、藤之助はちとせが舞台に上がるときの芸名を名づけます。
第二回京都博覧会の日、三条大橋のたもとに設けられた舞台で、ちとせは千都世の名で三味線を演奏します。

多分、あらすじを読んでもチンプンカンプンかもしれません。これは私が説明下手ということもありますが、それ以上に、本作は話の筋立てが複雑なのです。

三味線を弾くことになった少女の成長物語を本筋に、幕末の動乱をきっかけにした社会移動(お菊と美濃屋の主人)、天皇行幸と京都博覧会という時代の移り変わり(藤之助と彼の母親)のありようが練り込まれています。17歳という年齢関係なく、このようなプロットを考える作者の能力には驚くべきものがあります。

人物造形が足りないとの指摘がありましたが、私は特にそのようには感じませんでした。むしろ、作り込み過ぎなかったことで登場人物の普遍性が損なわれなかったと考えています

このような評が出るのは、日本の小説では過剰な人物造形が当たり前になっていることが背景になっているような気がしてなりません。同じエンタメでも普遍的な人間が描かれていればそれでいい作品もあるものです。『君の名は。』だってそうだったでしょう? 最近の人々の感性にアップデートできていないんですよ、やたらと感情移入とか人物造形を評価の基準にするひと。

ただ、登場人物の配置に難があったことは間違いありません。

まず、筋書きにおいて不要な登場人物が出てきています。稔とツバメですね。私があれだけ長々とあらすじを書いたにもかかわらず、いっさい出てきません。それでも十分にストーリーを説明できています。

小説はドラマの連続体ですので、機能しない登場人物を出すわけにはいかないのです。読者の注意力を本筋からそらしてしまうおそれがありますし、ドラマティックなところがぼやけてしまいます。

ただまあ、2021年に大ヒットした『推し、燃ゆ』にだって、本質いらない登場人物がたくさんいるんですけどね。てか、ヒット作にはほとんど作家や批評家の指摘する「欠陥」があるのではないか?!

それはさておき……。

最初に出てきた登場人物が主人公のちとせではなく、藤之助だったこともよくないです。基本的に主人公は一番最初に出さなくてはいけません。そうしないと読者が作者の思惑とは異なる登場人物にフォーカスしてしまうおそれがあるからです。

冒頭をそのままにするのなら、ちとせと藤之助のふたりを主人公とし、『天空の城ラピュタ』のように行動を同じにしたほうがよいでしょう。そのほうが読者はすんなりと作品を受けれられます。

実際には、話が進むにつれ、藤之助が物語の後景に退いてしまいます。それなら藤之助と母親との対立を事細かに描く必要はなかったのではないかと思われても不思議ではありません。

主人公を主人公らしくできていないのです。

それに関連して、最もよくないところをいいます。登場人物が主人公の別の側面を引き出していません。登場人物のすべてがストーリーを動かす「駒」で終わってしまっているのです。

人間は複雑性をもつ人間関係、すなわち社会のなかで生きています。そして、様々な社会を行ったり来たりして生活をしています。例えば、ちとせには丹後の家族があり、お菊との家庭があり、藤之助との仲もあります。こうした社会に対してどう反応するかによって、登場人物の人間像が明らかになるのです。

どの登場人物と相対しても、ちとせの反応が一様であったことは残念でなりません。ちとせのすべての人格がひとりでいるときや内面的になっているときにばかりこと細かに描かれています。これだと読者は揺さぶられないでしょう。最初から「ちとせはこういう女の子なんだ」という結論ありきで読まれていては没入感がなくなります。

小説の読者というのは「迷わされるのはいやだけど、揺さぶられないと飽きてしまう」というわがままな存在です。こうした迷える子羊を導くことが小説家にとって大切なことなのかもしれません。

迷える子羊、ですからね。今回はこれでおしまい。

まあ、でも京都文学賞の選評を読んでいると、自分が受賞する目はないなと思いました。

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