京都文学賞中高生部門最優秀賞受賞作 高野知宙 『ちとせ』 感想
高野知宙 さんの『ちとせ』という小説を読んだので、感想を書きます。
タイトルにもありますように、京都文学賞の中高生部門で最優秀賞を受賞した作品です。
京都文学賞には一般部門と中高生部門と外国人部門があります。一般部門の最優秀賞は出版化されるのですが、高野さんが受賞した中高生部門の副賞には出版化はありませんでした。にもかかわらず、小説が書籍になったのですから、この小説がどれだけ期待を持って世に出されたかが分かると思います。
本作品に苦言を呈する内容がありますが、1,700円を出してまで買う価値のある小説であるとは思っています。
多くのひとが評価されているとおり、筆力には素晴らしいものがあります。文章表現が多彩で、描写に過不足がありません。描写は少なすぎると読みごたえがなくなりますし、多すぎると作者がなにを伝えたいのか分からなくなります。本作品ではそのような“引っかかり”がほとんどありませんでした。
17歳という作者の年齢、またプロか素人かに関係なく、これだけバランスよく書き切ることは難しいものだと思います。少なくとも、私にはできません。
本題に入る前に、あらすじを紹介します。あらすじなので、ネタバレを大いに含みます。
多分、あらすじを読んでもチンプンカンプンかもしれません。これは私が説明下手ということもありますが、それ以上に、本作は話の筋立てが複雑なのです。
三味線を弾くことになった少女の成長物語を本筋に、幕末の動乱をきっかけにした社会移動(お菊と美濃屋の主人)、天皇行幸と京都博覧会という時代の移り変わり(藤之助と彼の母親)のありようが練り込まれています。17歳という年齢関係なく、このようなプロットを考える作者の能力には驚くべきものがあります。
人物造形が足りないとの指摘がありましたが、私は特にそのようには感じませんでした。むしろ、作り込み過ぎなかったことで登場人物の普遍性が損なわれなかったと考えています。
このような評が出るのは、日本の小説では過剰な人物造形が当たり前になっていることが背景になっているような気がしてなりません。同じエンタメでも普遍的な人間が描かれていればそれでいい作品もあるものです。『君の名は。』だってそうだったでしょう? 最近の人々の感性にアップデートできていないんですよ、やたらと感情移入とか人物造形を評価の基準にするひと。
ただ、登場人物の配置に難があったことは間違いありません。
まず、筋書きにおいて不要な登場人物が出てきています。稔とツバメですね。私があれだけ長々とあらすじを書いたにもかかわらず、いっさい出てきません。それでも十分にストーリーを説明できています。
小説はドラマの連続体ですので、機能しない登場人物を出すわけにはいかないのです。読者の注意力を本筋からそらしてしまうおそれがありますし、ドラマティックなところがぼやけてしまいます。
ただまあ、2021年に大ヒットした『推し、燃ゆ』にだって、本質いらない登場人物がたくさんいるんですけどね。てか、ヒット作にはほとんど作家や批評家の指摘する「欠陥」があるのではないか?!
それはさておき……。
最初に出てきた登場人物が主人公のちとせではなく、藤之助だったこともよくないです。基本的に主人公は一番最初に出さなくてはいけません。そうしないと読者が作者の思惑とは異なる登場人物にフォーカスしてしまうおそれがあるからです。
冒頭をそのままにするのなら、ちとせと藤之助のふたりを主人公とし、『天空の城ラピュタ』のように行動を同じにしたほうがよいでしょう。そのほうが読者はすんなりと作品を受けれられます。
実際には、話が進むにつれ、藤之助が物語の後景に退いてしまいます。それなら藤之助と母親との対立を事細かに描く必要はなかったのではないかと思われても不思議ではありません。
主人公を主人公らしくできていないのです。
それに関連して、最もよくないところをいいます。登場人物が主人公の別の側面を引き出していません。登場人物のすべてがストーリーを動かす「駒」で終わってしまっているのです。
人間は複雑性をもつ人間関係、すなわち社会のなかで生きています。そして、様々な社会を行ったり来たりして生活をしています。例えば、ちとせには丹後の家族があり、お菊との家庭があり、藤之助との仲もあります。こうした社会に対してどう反応するかによって、登場人物の人間像が明らかになるのです。
どの登場人物と相対しても、ちとせの反応が一様であったことは残念でなりません。ちとせのすべての人格がひとりでいるときや内面的になっているときにばかりこと細かに描かれています。これだと読者は揺さぶられないでしょう。最初から「ちとせはこういう女の子なんだ」という結論ありきで読まれていては没入感がなくなります。
小説の読者というのは「迷わされるのはいやだけど、揺さぶられないと飽きてしまう」というわがままな存在です。こうした迷える子羊を導くことが小説家にとって大切なことなのかもしれません。
迷える子羊、ですからね。今回はこれでおしまい。
まあ、でも京都文学賞の選評を読んでいると、自分が受賞する目はないなと思いました。
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