文藝賞に応募しました

先日、Webで文藝賞に応募しました。三年連続の投稿ですが、今回は一太郎形式で送ることができ、少しばかり感動しています。

3月の初旬から制作に着手し、約250枚を書き切りました。最初は企画枚数150枚だったので1日5枚のペースで書いていました。途中で「これではダメだ!」と気づいて1日10~15枚のペースになりました。それで締め切りギリギリに完成したわけですから、毎日同じように書いていたら、いまごろ締め切りに間に合わなくて呆然としていたかもしれません。

つらかったのは制作ではなくて、企画でした。新潮新人賞応募作を2月中旬に書き終え、それ以降、文藝賞向けの作品に取りかかっていたのですが、なかなか作品のアイデアが出てきませんでした。

時間がないために見切り発車で制作した作品があったものの、これは文藝編集部が喜ばないと判断し、60枚程度書いたところでボツにしました(小説のコンセプトはいいので、ライト文芸もしくはエンタメの他賞に回します)。結局、アイデアが固まったのは、3月初旬。制作に1か月しかかけられませんでした。

ただ作品を書くのなら、いくつか企画が出るのですが、文藝賞にふさわしい作品の企画というのはなかなかハードルが高かったですね。もともとそういう作風ではないですから。自分の書きたいものよりも向こうが求めているものを制作するほうが大事ですが、これを貫き通すのは本当に難しいことでした。

文藝の編集部は「キテレツ」な作品を求めています。ですから、文藝賞向けの作品を企画するときもキテレツさを追求する必要がありました。なるべく設定はキテレツなものにしようとしたのですが、ストーリーを意識してしまい、最終的には普通の小説になってしまいました。

キテレツなものをキテレツなままにするには、ストーリー性を無視することが大事。そう考えたら、文藝賞ってやっぱり純文学の賞なんだなって気がしますね。

ただまあ、作品の完成度はあると思います。フェミニズム(第二波、第三波、ポストフェミニズム)は意識しました。各女性登場人物に、そうしたフェミニズムの各要素を入れ込みました。いまから考えたら、設定上、ルッキズムを描いたととらえられるかもしれません。

といいつつ、本当の主題はサルトル的な実存主義なんですよね。芥川賞の選評で平野啓一郎さんがうんざりしているアレです。投企したものが失われたとき、喪失感で嘆き悲しむのではなく、投企したことによって得られたものを大事にしようというのが趣旨。『推し、燃ゆ』とは真逆のコンセプト。でもまあ、フェミニズムの要素が強すぎて、わかんないかもしれなませんね、下読みさんには。

最初、キテレツと聞いて、シュルレアリスムを思い出したんです。それで東京都庭園美術館で開催されている『奇想のモード』を思い出しまして、ふと、「人間の実存のありようも、よく考えたらシュルレアリスムみたいだな」と感じたのが、この小説の着想なんです。ここから先を書くと、さすがに誰の何の小説か分かっちゃうので、いまはここで止めておきますが。

でもまあ、文藝賞向けの作品を書いていて、自分には書きたいものがないことに気づかされましたね。確かに現代社会のテーマやそのテーマを抱える人々の生活のありよう、インサイトを見つけることはできるんです。でも、それを描きたいかといわれれば疑問符なんですよね。正直、まさかフェミニズムについて書くとは思っていませんでしたもの。

でも、まあ、そうした自分のスキルを出版社の求めるように編集していけたらいいのかなと思っています。書きたいものしか書けなかったら、すぐに題材がなくなると思いますし。

結果がどうなるかは分かりませんが、まあ、期待せずに次のことを考えないといけませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?