ブリティッシュ・ジョークとしての現代美術 ~ダミアン・ハースト 桜~ 感想

本来はゴールデンウィークに観た展覧会の寸評を書くつもりでした。けれども、『ダミアン・ハースト 桜』のレビューが長文になったので、急遽予定を変更して、単独のレビューを書くことにしました。

現代イギリスを代表する現代美術家、ダミアン・ハーストが手がけた絵画の展覧会です。絵具をぶつけるようにして描いた“桜”、24点が展示されていました。当初は入場者が少なかったようですが、私が鑑賞したときはかなり多くの観客がいました。美術鑑賞が趣味ではない方が多数来場したのか、うんざりするぐらい「かわいい」を聞きました。

おすすめかどうかはともかく、行ってみる価値はあると思います。世界的な芸術家ですからね。乗るしかない、このビッグウェーブに。

まあ、期待外れと思ったら、Vindaloo のプロモーションビデオに出てくるおっさんが描いた絵画だと思ったら妙に納得がいきますよ! しかし若いころからハゲてたんですね……。

私自身、鑑賞中、何度もこの歌を歌っていました。そうでないとやってられないぐらいに、ハーストが何を描いたのかさっぱり分かりませんでした。

本展では特大サイズの桜の絵画が展示されています。しかし、桜といっても、日本でよく見られるソメイヨシノや八重桜などとは異なります。赤や黄土色の“花びら”があり、“花びら”の付き方も不自然です。

本展で描かれている“桜”は、作家の想像上の桜なんですね。調べてみますと、作家はアトリエのなかで、桜の写真などを参考にすることなく作品を完成させています。つまり、本展の「桜」を額面通りに桜ととらえるのは軽率だということです。

このシリーズの最大の魅力は、「中途半端さ」ですね。絵画の様々な様式を参考しつつも、それらを真似るような素振りをして、実は逸脱しているところにあると思います。

展覧会の案内文や図録などには様々な画家の影響があると主張されていますが、いまいち信憑性はないですね。

フランシス・ベーコンからの影響はこの作品群に限らず、ハーストがこれまでに制作してきたインスタレーションからも想像できることです。

ジャクソン・ポロックやジョルジュ・スーラとは、それぞれ見た目は近いですが、根本が違いますね。

ハーストの「桜」はジャクソン・ポロックの作品とはオールオーバー(下部リンクを参照)というところは共通しています。ただ、ポロックと違って、ハーストは具象的に描こうとしていますね。

ジョルジュ・スーラは新印象派の画家で、風景や人物を点で描いた作品を多く発表しました。図録には記述はないですが、ハーストの「桜」はスーラの作品にも影響を受けたそうです。

確かに、「桜」は新印象派のように点で描かれた絵画です。しかし、スーラのように理論的、悪く言えば理屈っぽい色の配置ではありません。ポロックのように色を塗っている時点で、理屈よりも感性や直観が重視されているといえます。

また、印象主義からの影響というのもおかしいですね。確かに印象主義も写実的ではありません。でも、印象主義は主に屋外の風景を「見たまま」描いています。しかし、ハーストはずっと屋内で制作をし、最初から作家の想像の産物としての桜が描かれているわけですから、これも変なんですね。

こんな風に、ハーストの「桜」は昔の絵画と似たような手法は取っていますが、大事なところは外しているんですよね。ですから、批判的に観ようが無批判に観ようが、「桜」に対して何らかの価値判断を下すと、どうしてもいささか的外れなものになってしまうんです

そう考えれば、この“桜”に対するイギリス風ジョークは日本人にも向けられているような気がします。ハーストは「桜」によって“美と生と死”を描いていますが、それは日本人が桜に抱いている“美と生と死”とは別のものです。

ハーストは以前から“生と死”をテーマにした作品を多く制作していました。有名なのが、ホルマリン漬けになった乳牛二頭の作品です。これは“母と子”の分断(母子像はカトリックの伝統的な画題です)、死への引力(ホルマリンは作品の保存ではなく、その有害性のために使用しています)がテーマです。

ホルマリンに漬けられた牛には、“死”が詰められているということです。それを鑑賞することによって、ひとは自分の“生”を意識させられることになるでしょう。ハーストの「桜」で描かれた“美と生と死”はこの作品の延長線上にあるものと見たほうが自然です。少なくとも、もうひとつの島国に昔からある価値観から生まれたものではないはずです。

でも、ツイッターなどを見る限りでは、日本人の鑑賞者はハーストの「桜」にハーストが表現してきた“美と生と死”ではなく、自分たちが桜に対して抱いている“美と生と死”を観てしまっています。

結局、彼ら彼女らは美術作品を観ているのではなく、自分自身の価値観を美術作品に投影しているだけなのです。冒頭に出てきた「かわいい」という直観的な感想なんて、その愚の極致ではないですか。

こうした鑑賞者の文化が生み出すバイアスによって美術作品の理解を歪めてしまうことを可視化したところにこそ、この展覧会の意義があるのかもしれません。

ハーストもそれが分かっていて、わざわざ日本で展覧会をしていたなんてことも考えられますね。だって、ハーストの生まれた国、イギリスはシェイクスピアやモンティ・パイソンを生んだ国でもありますからね。真顔でいうジョークなんてお手の物でしょう。

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