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02.もうひとつの、失われてしまった風景

私の実家の辺りはかつて
こじんまりとした 商店街でした。

アーケードはなかったのですが、花電気のような物が道路の両側の電柱にくっついていて
北から南にながーく、商店が立ち並んでいました。

ちょうど私が物心のついた頃の記憶では

実家の右隣がカウンターだけの小さなお寿司屋さんで、左隣は本屋さん、
またその隣に酒屋さん、印刷工場、天ぷら屋さん、
ヘアーカットのお店に、精肉屋さん。
(ここのコロッケが美味しかった!)

精肉屋さんの倉庫には、毎週トラック売りの花屋さんが来ていて、ちょっとお墓参りをするときに寄ると、おばちゃんのシワシワの節だった手で、選んだ榊や季節の花を、新聞にくるっと器用にまとめて仏花を作ってくれたりしました。

倉庫の隣が祭衣装やさんで、その向かいには郵便局、左隣が小さな個人経営のスーパー、
路地をはさんで個人医院、裁縫道具やさん、
レディースファッションのお店と続き、

当時、立派な煉瓦造の4階建ビルの屋上からヘリコプターを飛ばしていたらしい大きな家具屋さんに、コインランドリー付きの銭湯と戻ってきて 、

我が家の真向かいには お弁当屋さん
…といった具合でした。

幼馴染みのお婆ちゃん家が靴屋さんをしていたり、同級生の中にも、商店を営む家の子供が何人もいました。


八百屋、喫茶店、餅屋、たこ焼き屋、お茶屋、パン屋、駄菓子屋、タバコ屋、薬局…と
多種多様な あらゆるジャンルが揃っていて

幼い私にとっては、家から一歩でたその商店街が、遊園地よりも 楽しい遊び場所でした。

当時の紀州街道はすでにアスファルト舗装された車道になっており、
なかなか車通りも多かったので

"危ないから、飛び出しなや!"なんて、
よく怒られたものだけど、

そんなことは気にもとめずに
走りまわっていたように思います。

タバコ屋さんのお手伝いで 自動販売機にジュースを補充したり、店頭の土間にラクガキしながらお店番をしたり、ご近所の小さい子の面倒を見たり。。

少しシャイで、でも、人と接するのが
大好きな子供でした。

商売人で人当たりのいい おじちゃん達に
"おー、サッチャン!"と声をかけてもらうのが、とっても嬉しかった記憶があります。

"サッチャン、お願い!"

自宅にお客様が急に来られたとき、
家族から、そう頼まれるのも好きでした。

はいはい、待ってました!とばかりに

お客様用の大皿を持って 隣のお寿司屋さんで
お寿司を2~3人前注文し、
お次は反対方面へ ビールの空き瓶を持って、いざ、酒屋さんへ走るのです。

いつものことだから、お店の人も分かっています。

握ったお寿司を綺麗にお皿に乗せて、もう一方では、ビールを瓶にめ一杯に注いでから、それらを自宅へ運んでくれるのでした。

こういう経験は、今ではなかなかし難い経験かもしれません。

そんな楽しかった商店街も
時間と共に 少しずつ変わっていきます。


私が小学校生活を送るうちにも どんどんと
お店が畳まれていきました。

家の向かいのお弁当屋さんが移転して
お好み焼き屋さんに変わったくらいから
(ちなみにこのお好み焼き屋さんも昨年に閉店しました)

幼馴染みのお婆ちゃんの靴屋さんは
シャッターを半分しかあけなくなり、
同級生のお婆ちゃんがお茶屋さんをやめ

銭湯跡地は、学習塾になり(後に、その塾の第1期生となります)
酒屋さんは店前に自販機を置いて、
瓶の回収もしなくなりました。

大阪市内で一人暮らしを始めてから、
ほんのたまに地元に帰ると(大体、祭りの日かお正月です)
所縁の駄菓子屋が綺麗さっぱり、
同級生の新居と化していたこともありました。

弟がアルバイトしていた個人経営のスーパーもいつのまにか閉業し、跡形もなく壊され

次々になんの変哲もない、同じような形の
新しいお家に変わっていきました。


思い入れのあったものが忽然と消えていき、
いつのまにか、商店街の趣もなーんにもなくなって

私から言わせれば、
がらんどう、になってしまった。

悲しいなぁ。

今でも、大切な風景として私の心の中にひっそりと

その商店街はあるけれど、

せめて面影がもう少し残っていて欲しかった、と
無い物ねだりな想いに更けり、

ときどきは、センチメンタルにもなるのです。

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