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140字の論理的思考

ヘビーツイッタラーである。

文字を読めるようになる前から漫画を読み、図鑑を読み、絵本を読み、文字の読み書きができるようになってからは読める文字すべてを読み、書かなくてもいいことすらひたすら書き綴った。書くことは、楽しい。読むことも、楽しい。私の人生で、何かを読み、書くことは、一番の楽しみだったかもしれない。

小学生の頃は「帰りの会」で先生からの連絡事項を「連絡帳」にメモして、さらにその日一日を振り返った一言日記を書き、先生のチェックをもらってから下校する。その一言日記が数ページにわたることもしばしばで、先生にとっては面倒だっただろうけど、私は書くことが楽しくて仕方なかった。

国語の授業が得意だったわけではないけど、作文やら感想文やら、「とりあえず自分の考えを書く」ことにはあまり苦労しなかった。自己主張が強くて、書くことには慣れていたし、きっとまわりの子どもより、読んできた言葉の数が多かった。クラスで一番新聞を読んだし、きちんと辞書を引いたと思う。

あの頃は、書くとか、話すとか、とにかく物理的な形式に変換したくてたまらない「自分」がいて。文字にする、言葉にする、それを自分の目で見て、耳で聞いて、そうなの、私こういうこと考えてるの、って実感することが最高に快感だった。それを人に見せつけて受け入れてもらうことはもちろんだけど、ただ単純に、自分の言葉で客観的に語られる自分の思考がすきだった。

いつからかは分からないけど、自分で小説を書いたりもしたし、高校生くらいまでは誰に見せるでもないポエムを大量に生み出した。そのノートたちを詰め込んだ箱は今でも捨てられないけど、絶対に人には見せられないし、自分で見直したら心臓が止まってしまうかもしれない。まさにパンドラの箱と化してる。

それとは別に単純な日記もあるし、すきな漫画の考察をまとめたノートもある。手帳にはその日、友達と話していた気に入ったフレーズを書き留めたりもしていた。

モンゴメリやアンネ・フランクの伝記を繰り返し読んでいたから、「日記」は私の言葉を受け止めてくれるもう一人の自分、っていう意識もあった。

たしか高校生の頃は、ブログもやってた。学校の友達に見せていたような、見せていなかったような、いくつかやってたかもしれないし、そのあたりはあんまり覚えていない。少なくとも、共通の趣味を持つオタクの知り合いができるようなブログを書いてた。

高校から大学にかけてくらいで、ツイッターとかフェイスブック、そしてあのmixiあたりが出てきたと思う。全部やってて、全部にこういう、ここに書いてるような、自分のことを書いてきた。

ツイッターはもうそれこそ、息を吸って吐くのと同じリズムでツイートボタンを押していると言っても過言ではない。私の思考回路は、140字でいかに簡潔に、的確に、最大限、自分の思いをまとめるかを最も重要視していて、だから今こうしてnoteに書くときに、長い文章が書けない。思考が持たない。多くを語るための材料を持たない。情報も、知識も、言いたいことも、それをもっとも適した形で表現する道具も、技術も、ない。

「まじか」「やばい」「めちゃくちゃ」「すごい」…簡単に私の思いを伝えてくれるそういう表現も大好きだけど、それは私が28年間、この脳細胞を使って育ててきた言葉じゃない。それでも、140字の世界で私は、「私」より、道路標識みたいに誰もがすぐ理解できる言葉たちで着飾ってしまう。

書くことが大好きだった、人に見せるためにも、誰に見せるでなくても、ただ書いていたあの頃の私はどこに行っちゃったんだろう?

理由というか、原因は、私が自分を人に知って欲しくて仕方ない欲求から少し解放された「大人」になったこと、編集の仕事をしていて「圧倒的に書きたい欲のある人」と接することが多くなって、自分の中にずっとあった「自分が書いたものを人に読んでほしいという傲慢な欲求」への後ろめたさがより明確になったこと、オタクの自己表現欲求・承認欲求を嫌悪するようになったこと…なんかもあるのかもしれない。

オフラインからオンラインへ発言の場が変わってきたし、「言葉でまとめる」より「波にゆだねて垂れ流す」時代になったこともあるんだろう。

少なくとも、人に見てもらうために、かどうかは置いておいて、人に見られる場所で言葉を綴ることは、年を重ねるごとに増えてきた。だけど、自分のためだけに、書くことは、今はほとんどない。

私は小学1年生の頃からブラインドタッチができるし、携帯電話(今でいうガラケー)で私より入力が速い人も見たことがない。スマホでも文字を入れるのはそれなりに速いはず。ペンを持って字を書くよりも「打ち込む」ほうが身体的にも、そして精神的にも楽だ。

書くことは楽しい。でも、それは時に「自分の深淵を覗き、形のない思考・感情を言語化する」という重労働でもある。きっと、子どもの頃と、「書く量」は変わっていないと思う。それでも今の私は逃げている。自分の、表現したいっていう欲求から。表現したいことを、表現できない未熟さから。表現したことを、自分で素敵だと思えない事実から。

今回は、「自己との対話」としての「書く」ことについて書いたので、芸術家と批評家、作家と編集者、読者と編集者、書く欲と読ませる欲についても、そのうちまとめたい。

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