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熟年の見合いの相手は

「お茶」

キッチンに立つ妻に向かって、声を投げた。

「おい、お茶。聞いてるのか」

返事はない。

はあ、と俺はわざと妻に聞こえるようにため息をついた。
すっかり冷え切ったもんだな、と大きな独り言を漏らす。

十一月も後半に差し掛かっている。
今日はとりわけ風が冷たい。

しかし、それ以上に我が家の空気は凍り付いている。

先月定年退職してから、家に入り浸る日々が始まった。
これまで仕事に邁進してきて、休日は寝てばかり。
これといった趣味もなかったから、仕事を奪われた今、何もすることが思いつかない。

しかし、これまで稼いできた俺に対して妻の仕打ちはあまりに残酷ではないのか。
話しかけてもろくに返事もしないし、挨拶はおろか、一日中顔を見もしない。
ひとつ屋根の下に住みながら、まるで避けられているようだ。

まったく、いつからこんな嫌な女になってしまったのだろう。

ひとり娘は結婚して家を出たから、妻と二人暮らし。
家にいれば妻との冷え切った空気に耐えなければならない。
しかし、かといって行先もない。
流行り病が続いているから世の中は外出自粛ムードだ。

まったく困ったもんだ。
熟年離婚なんて言葉がしばらく前に流行った気がするが、こういう状態が高じて離婚してしまうのだろうか。

『妻と離婚したら……?』

俺は家事は一切できない。
親戚もいない。

ふん、だが妻だって困るはずだ。
俺の退職金が手に入らなくなるからな。

……いや、本当にそうか?

妻の方が俺より若い。
もしかしたら、誰か別の相手を見つけることだってできるんじゃないだろうか。

妻は俺との離婚だって考えているかもしれない――。

そう思うと、ちょっと背筋が寒くなる気がした。

『ばかな。余計な心配をするんじゃない』

俺は気分を切り替えようと、娘から届いた手紙を開けた。
いつもはスマホで子どもの写真を送ってくるのに、なぜか今日は封書が届いたのだ。

どれどれ。

【お父さん、最近お母さんとうまくいってる?】

ははは、さすがにあの子にはお見通しだな。

【お父さん、もし困ってるなら、新しい相手を見つけなよ】

何だって?

【といっても、お父さんが自分から女の人を探すとは思えないから、私が探しておいた】

おいおい、どういうことだ。

【十一月二十二日、午後三時にここに来て。予約してあるから】

手紙の最後に、有名ホテルのラウンジの名前が書いてあった。
封筒には、ラウンジの利用券まで同封してある。

随分と強引じゃないか。
あの子は昔から、一度こうと思ったら意思を曲げないところがある。
とはいっても、私に再婚相手を探してくれるなんて、ずいぶんと思い切ったものだ。

俺は一瞬考えた。
再婚など、急ぎ過ぎた話ではある。
しかし、外出の口実ができるのはありがたい。

俺は出かけることにした。


「予約の富沢だが」

ラウンジで、黒いベスト姿のスタッフに声をかけた。

「富沢様ですね。承っております。こちらへ」

席に通されたが、相手の女性はおろか、娘の姿すらない。

「相手はまだ来ていないのかね」
「ご伝言を承っております」

スタッフから受け取ったメモには、こう書かれていた。

【会場内に相手の女性がいます。その方を探し出してください】

おいおい、と声に出そうになった。
相手の顔も知らないのに、探せとはどういうことだ。

【その女性は、誰よりも素晴らしい人です。家事は万能で、特にサバの味噌煮が絶品です】

そりゃあいいなぁ。
俺にぴったりじゃないか。

【話し好きの方です。一緒にいて退屈しませんよ。年に一回は海外旅行をご希望です】

ああ、いいぞ。
俺は海外駐在の経験もあるからな。
単身赴任だったから、一応英語も喋れる。

しかし、外見については何も書かれていない。
この混雑したラウンジで、どうやって相手を探せというのだろう。

【相手の方は、今日がお誕生日ですから、すぐに分かります】

どういうことだ、と思ったその時。

ラウンジで穏やかなクラシックを演奏していたピアノが、ハッピーバースデーの曲に変わった。

「あちらに」

スタッフの男性がそっと教えてくれた。

俺もそちらに目を奪われる。
そこに座っている女性は、髪を優雅にウェーブをかけてセットし、藤色のショールを巻いていた。

俺の方には背中を向けているが、しゃんと背筋が伸びた後ろ姿は、見るからに品が良い人だ。

あの女性が俺の相手だというのか。

女性スタッフがケーキを持ってラウンジに入場した。
会場内に静かな拍手が起こり始める。

俺もつられて拍手を始めたのだが、なぜかケーキは俺の前に運ばれてきた。

「さあ、どうぞ」

半ば強引にケーキが手渡される。
困惑した顔の俺を、スタッフが立ち上がるように促す。

「お相手の方がお待ちです」

背中をとん、と押され、つい一歩踏み出してしまった。
ラウンジの全員がこちらに注目している。

おい、見ず知らずの相手の誕生日を祝えっていうのか。
しかし、これほど注目されていては後には引けない。

俺はおずおずと女性に近寄った。
彼女はまだ振り向かない。

「あの」

後ろから声をかけた。
彼女はポツリと言った。

「合言葉は」

ポカンとする俺に、スタッフが先程のメモを指さした。

【彼女が相手だと確かめるための合言葉は――】

「パリに行こう」

女性がサッと振り返った。

「ええ、喜んで!」

その顔は輝いていた。
会場が拍手に包まれ、状況が飲み込めない俺だけが棒立ちになっていた。

上品に化粧が施され、思わず見とれるほど美しい女性の顔は、不思議と見覚えがあった。

「お、おまえか?」

妻だ。

そうか、十一月二十二日。
妻の誕生日――そして、俺たちの結婚記念日だ。

「もう、何突っ立ってるの。早くいただきましょ」

女性スタッフがケーキを受け取り、素早くカットする。
俺は椅子にへたり込んだ。
ケーキを食べるどころじゃない。

「おまえ、こんなところで何をしているんだ」
「そっちこそ」
「俺は、ここに見合いで呼ばれて」
「ああ、そういうことなのね、やっぱり」

妻が見せてきたのは、俺に届いたのと同じ封筒。
娘からの招待状だ。

「高級ホテルのラウンジの利用券に、ヘアメイクのセットまで予約されてたのよ。全く強引な子で困ったわね」

しかし、こんなに嬉しそうな妻を見たのは久しぶりだ。
ケーキに手をつけ、上品に紅茶をすする。

そこで俺は思い出した。

【妻は、誰よりも素晴らしい人です。
家事は万能で、特にサバの味噌煮が絶品です】

これ、聞いたことがあるな。
いや、いつだったか、俺が言った気がする。

そう、三十年前、結婚式の披露宴で。

まったく、娘にはしてやられた。
妻はクラシックが流れるラウンジで、嬉しそうに紅茶にレモンを入れた。

「ねえ、行くわよね」
「は、どこへ」
「パリよ、パリ。さっき言ったじゃない」

あれは、メモに書いてあったから――という言葉は、ぐっと飲みこんだ。

「いつだったか、約束したでしょ。子どもが巣立ったら、もう一度パリに行きたいわねって」

そうだった。
新婚旅行以来、久しぶりのパリ。

「ああ、行こうじゃないか」

俺はようやく紅茶に手をつけた。
妻の笑顔がカップで波打った。

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