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それは他人だから。

朝、お弁当づくりをひとしきり終えるとオットから「ありがとう」の言葉がかけられる。ふと見ると洗濯物が畳まれているので「あー、やってくれたんだ。ありがとう」とわたしも声をかける。我が家ではもともと「ありがとう!」と言い合う場面が多かった。でも家族が増えて共に暮らすようになって、「ありがとう〜助かったわー」と言われたり言ったりすることがさらにさらに増えた。

だけど、「例えばもしわたしが彼女と結婚してたら、ここまでいい関係になっただろうか?」とふと疑問に思った。もしわたしが彼女と結婚してたら、不満もあったんじゃないか?ありがとうという言葉はこんなに交わされただろうか?わたしは家事はすごくいいかげんだ。大体部屋は汚れてるし、物のしまい方もいい加減。気になる人は怒りだすレベルかもしれなかった。

でもふと、Facebookで「過去の自分」が現れる。2009年当時、結婚して1年目の自分はこう書いていた。

フリーランスとして働くようになって数ヶ月経った。結婚してから数ヶ月も経った。 わたしはいりさん(オットのこと)を他人だと思うことにした。
このマンションもいりさんが住んでるところに転がり込んできてしまったけど、一人暮らしをしていると思うことにした。わたしはわたしの生活を自分でつくる。自分のことは自分でやる。いりさんもそうしている。他人。だからこそ、ご飯をつくってもらえたり、お風呂を沸かしておいてもらえたり、そういうことを「自分の分とまとめて」さらっとしてもらえたら、わたしは嬉しいから、ありがとうって言う。本来は自分がやることをやってもらえたから、ありがとうって言う。 結婚した事実も、彼が戸籍上の夫である事実も、わたしはいったん捨てようと思う。いま明確に言えるのは、彼が大切で彼と共に生きていきたいということだ。わたしは、そこから彼との関係をつくる。

過去の自分からの手紙に、「そうか、他人だったからありがとうって言えたのか。」としっくり来た。

「結婚した事実を捨てる」と危うい発言を豪語した新婚の自分。だけどオットを自立した他人として今も位置付けているから、わたしは結婚10年目の今もありがとうって言えている。

新しく家族のように過ごすようになった人もまた、他人だ。「家族だから」とか「夫だから」「妻だから」という余計な期待も世間的な役割付与の必要もないから、「ありがとう」って言いやすいのかもしれない。

本当は自分がやるはずのことを、一緒にやってくれる人がそばにいる。だから心から「ありがとう」が言えるんだ。本当にそれは有り難いことなのだと思える。

それは他人だから。

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