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ひと括りにすることとしないこと。専門性を持つということ。

先日こんなツイートを書いた。

平野啓一郎さんの小説『ある男』の登場人物・城戸(きど)は、弁護士であり、妻子のいる男性であり、在日三世だ。「在日だ」と敵視されたり差別に出くわすのと同じくらい「同胞だな」と同じ在日コリアンに肩を組まれるのも違和感がある。同じように「弁護士の先生だから」と言われるのも違和感がある。

ひとくくりにすることは、暴力的にはたらくときがある。ひとくくりにせず、「在日」でも、「弁護士」でもなくひとりの人間として関わられた経験は、その人の心に深く残る。だから、ひとりの人間として関わることはとても大切なことだ。

一方で、ツイートの通り、ひとくくりにすることによって理解しやすくなったり、慮ることができるときもある。この50代女性がほんとうに更年期にいるのかはわからない。だけど、本人の本質にせまらずに「きっと体調わるいだけだよ」「低気圧かな」と外部要因に寄ってしまうと、さまざまなことを許せてしまうこともある。「更年期ならこういうときはつらいだろうから、こういうふうに話そうかな」と考えることもできる。

ひとくくりにすることは、すべて悪なのかといえば、そうでもない。

わたしは福祉の専門家ではないけど、児童養護施設でアルバイトしたときにたくさんの児童福祉と障害福祉にまつわる本を読んだ。マーケティングの本を読んだときも、救急医療の本を読んだときも思ったけど、専門知識というのは、さまざまな複雑なできごとをことばにした、素晴らしいものだなと思う。言語化と体系化ってまじですごい。

ひとりの人を目の前にしたときに、専門知識がじゃましてしまうこともある。「在日」という言葉がもたらすさまざまなエピソードがじゃましてひとりの人を見えなくするように。だけど、うまく使えば自分の心を揺るがさない指針にもなる。 その人の本質にせまらず、その人の周囲にある環境に目を向けられるようになる。

ひと括りにしないことの癒しとひと括りにすることの癒しの両方を届けたい。それが本当の専門性というものだと思う。


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