サプライズされたら喜ばなきゃいけない雰囲気になるように

「わたしが行っちゃっていいんですか?わたしは元気だし、しんどくないから」

ある高校生が数日間の海外スタツアに行く前に、そんな電話をわたしにくれた。

生きづらさを持った高校生が無料で海外渡航できるプログラムがあって、彼女はその参加者だった。生きづらさとは、不登校経験があったり、経済困窮していたり、外国にルーツがあったり、それぞれのこの社会での生きづらさのこと。彼女は応募条件と優先選考基準に合致していたけれど、自他共に認めるアクティブな高校生だった。だから、彼女の言っている意味がよくわかった。

「そのままでいいんだよ。普通に行ってきて。審査員の人たちもわかってたと思う。わたしは、〇〇ちゃんがこれからあとに続く高校生にとってかっこいいなって思える存在になれるんじゃないかって思ってるくらいで。あー、でも、そんなのも気にせず、そのままの◯◯ちゃんで行ったらいいよ」と返した。すると、「そうですか。そっか。よかった!そしたら思いっきり発信しますわ!」と明るい声が帰ってきた。

※「かっこいいなと思える存在」という言葉は期待を背負う言葉だからまじでわたしは普段言わないのだけど、その人はその期待なら喜んで背負ってミッションにしてしまえそうな人だったから、そう言ってしまった。そして、楽しそうに思い切りツアーのことを発信してくれて、ほっとした。

贈与の呪い

「生きづらさを抱えた10代」という言葉で語られて、そこに寄付がやりとりされるとき、そこになにか呪いのようなものを与えてしまうことがある。どうしたって、そういうことが起きてしまうと思う。わたしはいつもそこに功罪を感じる。

『贈与論』という本のなかに、与えることはいい意味もあるが、呪いのような負の側面もあるという記述があった。たとえばそこに寄付が交わされるとき、意図せず高校生に対して「こういうあなたでいてね」というレッテルをはっつけてしまうこともある。サプライズのプレゼントを贈られたら、贈られたほうは喜ばなきゃいけないような雰囲気になるように、なんかしらの期待値が発生してしまう。「生きづらさを持った10代に世界を見る経験を届けたい」と伝えて寄付を募り、寄付が集まった時に、それを受け取る側は、「そういう自分でいなければ」というふうに思うかもしれない。だからこそ、聡い彼女は「わたしが行っちゃっていいんですか?」と聞いたのだと思う。

なんの期待も背負わずに

そして、それは、D×Pが大事にしていることとも反してしまう。レッテルをはらず、こちらから勝手な期待を寄せずに、ひとりの人間として丁寧に高校生と関わるD×Pスタッフの大切にしていることと真逆の結果が生まれてしまう。寄付集めを仕事にしだしてから、とにかくこれがフラストレーションだ。いつも心臓が滅してしまいそうになる。

でもわたしは本当は、シンプルに、どんな10代にも世界を見てきてほしいと思っている。生きづらさなんて持ってなくても、なんでもいいから。いいやん、誰にだって「経験」ってすごいことだもん。大人からのなんの期待も背負わずにそのままのその人で行ってみたらいい。楽しくなかったとしてもオッケーだし、正直「サイテーの12日間でした」っていう感想文が来ないかなっていつも思ってる。いいやん、寄付で10代にサイテーの経験届けたって。

そして腹をくくる

わたしはいつも高校生のしんどさとか課題を伝える度に、言葉の呪いを感じる。でも最終的には、そこの罪をわたしが背負わないと、誰にも伝わらないし、お金も流れないし、誰も幸せにならないって思ってる。

最終的に腹をくくって、今日も滅してしまいそうになる心臓を立て直す。

そんな立て直した心臓で、寄付のお願いをさせてください…!

いまクラウドファンディングをやってます。1500円から。

どんな高校生が来るかはわからないけど、自分の親戚にお小遣い渡しちゃう気持ちで、数日間の経験を一緒に届けちゃいませんか。功罪いっしょに背負ってくれませんか。サイコーの経験もサイテーの経験も、みんなの1500円で、届けたりましょう。

サポートも嬉しいのですが、孤立しやすい若者(13-25歳)にむけて、セーフティネットと機会を届けている認定NPO法人D×P(ディーピー)に寄付していただけたら嬉しいです!寄付はこちらから↓ https://www.dreampossibility.com/supporter/