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日刊さっちん(ゆるめ)

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さっちんこと入谷佐知が毎日のちょっとしたことや頭の中身を書いていくだけのマガジンです。ゆるめです。
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#福祉

「国」に求めることと、「わたしたち」がやることの境界線

「それは国とか行政がやることなんじゃないかな。なぜあなたたちがやってるの?」 と言われて「そうだよねえ」と思う。 「福祉事務所に相談しにいったら追い返されてしまった」とか「ハローワークに行ったら"バイト経験もないの?”と言われた。サポステとかそういう場所は教えてもらえなかった」とか「生活保護申請に言ったら、"ご自身のご家族は稼いでるんですから頼ってください"って言われました。家族には暴言を吐かれるし、頼れないから来たのに…」とか、そんな話を無数に聞く。だからNPOや非営利

"若者たちに「自立」を求める圧力を弱め、「辞めてもいい」と言える社会を作ること。"

ものすごい実践をされたあとに、「学校だけでは限界」という結論に達された記事。とてもいい記事でした。 自立に向けた教育のジレンマ  伊藤秀樹 / 教育社会学(2019/05/16) https://synodos.jp/education/22545 伊藤先生は、ある高等専修学校で10年間フィールドワークを行っておられたという。この高等専修学校に通う生徒は、D×P(ディーピー)で出会う定時制・通信制高校の生徒と似ているところがあるなと感じたのは、この記述からだった。 私が

ひと括りにすることとしないこと。専門性を持つということ。

先日こんなツイートを書いた。 平野啓一郎さんの小説『ある男』の登場人物・城戸(きど)は、弁護士であり、妻子のいる男性であり、在日三世だ。「在日だ」と敵視されたり差別に出くわすのと同じくらい「同胞だな」と同じ在日コリアンに肩を組まれるのも違和感がある。同じように「弁護士の先生だから」と言われるのも違和感がある。 ひとくくりにすることは、暴力的にはたらくときがある。ひとくくりにせず、「在日」でも、「弁護士」でもなくひとりの人間として関わられた経験は、その人の心に深く残る。だか