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“共感”という言葉の危うさ

共感されれば万事OK?

3、4年くらい前から、打ち合わせでよく出てくるようになった“共感”という言葉。

“ターゲットに共感されるコンテンツを”とはよく言われるのだけれど、そこだけを目指してしまうと、場合によっては本来の目的には緩くて刺さらない、もやっとした企画やコンテンツになることも多くある。

たしかに共感されることは大切なんだけど、じゃあ普段観ているドラマや映画なんかは、共感だけしたくて観ているの?(というと、ちょっと大げさ)

とまぁ、そんな感じで、常に共感されるものだけが“良いコンテンツ”って訳ではないはず。

なぜ“共感”という言葉に囚われるのか?

最近はSNSなどを通じて、個人メディアの影響を語られることが異様に増えたように思う。「共感されるコンテンツ」って響き、なんかもっともらしいし。
「シェアされる投稿→共感される投稿」って部分だけが、強烈に印象づけられているからかな。「共感=正義」みたいな。

人の目を止めるには、「違和感」や「異質」なテイストが、“なんか気になる”引っかかり作ったりもする。「当たり障りのない」では物足りない時もある。

立ちかえることってとても大切

迷子になりかけたら、とりあえず戻れる場所まで戻ってみる。
深掘りだけをしていくんじゃなくて、当たり前のことだけど「それ作るのってなんのためだっけ?」って、立ちかえってみる。
すると、意外と足元にヒントが転がっている。

今回のnoteは「なにかしら新しいこと、変わったことを」ってなりがちな自分への戒めでもある。
「そもそもここって出来てたっけ?」とか「本来の目的って?」とかたまには冷静に足元を見てみよう。意外なものが転がっているかも…

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