和訳:写真と彫刻 /オブジェクトの先へ 中盤
・写真と彫刻/存在論の等価値
ティエリー・フォンテーヌは写真のみの展示で立体物はないが、あったとしてもその作品は写真作品として成り立っていたであろう。improbable light bulb(Lumieres,2012)でも彼は写真によって彫刻を彫像しているし、彼の近年の作品、蝋でできた泣いているアフリカのマスクのような彫刻の写真(その宗教的混交も置換によって見出された)ではもっとシンプルに、彼の作品の中核で対峙し変換しあう。
必要性を超えて彼が写真分野へ来たのではないかと指摘すると、’私は私自身の作品のフォトグラファーである’と彼は繰り返す。1969年レユニオン島(のちに高等師範学校でサーキスの元、美術を学んだあと一時戻ることになる)で生まれ、今日と同様1990年台中頃メトロポリタンで過ごした中で、写真が彼の彫刻作品を経済的に展示する方法になるであろうと気づく。それから彼の作品は最終的なイメージに基づいて決定されている。
CPIFで展示された、彫刻の重要な材料である土とプラスターで頭を完全に覆われた人々を写した彼の最初の写真シリーズや、オブジェクトの発展を見せた後の作品Souvenir(2010)(貝殻からエッフェルタワーを作る人を映した作品)、Etude(2016)などがある。
特にEtudeでは明確にこの二つのメディアの等価値性に焦点を当てている。作品中の性器が取り除かれた男女のヌード(作家によって母体から鋳造されたものである)は、彼らの写真としての本質を断言する。
少なくとも彼が(ただの痕跡から、印刷するという行為を含めた確証へと昇華させるというという)同じプロセス、同じ文脈、上記の展示での複製に見られる可能性の中で研鑚した方法において、これら写真と彫刻の接続はその二つのメディア間で分かち合う存在論の等価値性に基づいた接続として彼にとって自然で、必然的でさえある。
屋外で撮られてはいるがそれが説明される部分は少ししかなく、タイトショットで黒字か白地の背景であったりもする為、ティエリー・フォンテーヌのイメージはしばしばカタログ用の彫刻作品の写真ととらえられる。
それらは「How One Should Photograph Sculpture」の冒頭で美術歴史家ハインリッヒ・ヴェルフィリンが述べた、
「彫刻、少なくとも古典の彫刻は洗練された、または’写真映えの良さ’からの試みではなく(たとえそれがより良いボリュームとらえていても)、’作家のコンセプトに合致した’直接的な視点から撮影されるべきである」
という忠告を想起させる。
ヴェルフィリンはその喚起の中で、フォンテーヌが古典的なレパートリーにのっとって制作しているとしていっそう評価している。
Etudesは考古学を足がかりにして作られているし、Esprits(2014)はミケランジェロのピエタを引用している。
ヴェルフィリンはこれらを例に挙げていないが、このような厳密な形式的行為をフォンテーヌのように命じたに違いないと推測できる。
このようにイメージとその具現化の文脈のための題材を超えて、
彼の作品は写真の形をしたものでもあり、彫刻を制作するフォンテーヌ自身への歴史的且つ因習的な反復でもある。
我々はそれこそ写真と彫刻の関係性が押し拡げる彼の表現空間であると疑いなく気づくことができよう。
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