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「4人の親の死②育ての母と実母編」

こんにちは。柚木幸子です。岡山市でサロンtrue,NPO法人オカヤマビューティサミットを運営しております。

今回はプライベートの話で「4人の親の死②育ての母と実母編」を書いています。今日も投銭文章にしてみました。もしよろしければ、100円でも購入やスキをポチッで励みになりますのでお願い致します( *´艸`)

私の誕生などは前回の「4人の親の死①実父編」はこちら

母と父が一緒に暮らしていた想い出は特になく、母と父は離婚して私は父方についたので、どこかに行ったとかの思い出もなく、写真とかも一切なく。一つ覚えてるとしたら

幸子の足を切らんでやって

こうして抱きしめた母の腕だけだ。私の足癖が悪く(おそらく足でドア閉めたりしたのだと思う)注意しても聞かない私に、大きな裁ちばさみを広げてきたのだ。逃げてると母が抱きしめて守ってくれた。この時に記憶に残る残像は父の怒った顔しかない(母が後ろから私を抱いて逃げてたので)無論、父も本気ではなかっただろうが。。3歳くらいの私は「ぜったい!切られる。こえ~(怖い。岡山弁)」と思ったほど(笑)もちろん、切られず両足健在である。

木の向こうにいる母

父と離婚したのち、あの女には近づいたらダメ!と言いつけられる。お母ちゃんのせいで離婚したから、お母ちゃんなんか嫌い!と思っていた。寂しくはなくて、そのために自分たちが預けられている方が悔しかったのだ。私が公園で遊んでると、誰か木の陰から覗いている。「お母ちゃんだ」
最初気づかなかったが母の姉といたのでわかったのだ。その瞬間、私は母の前に瞬間移動「二度と会いに来るな!見に来るな!」

腹が立ってたって仕方なかった7歳の自分に言う。どこかに刃を向けたかったんだねって。母の気持ちを知らずに悪態をついた(今となっては相当傷ついたと思う)それから先、一切会うこともなくなったのだ。

母代わりの伯母

母代わりとして、すでに高校を卒業をした息子たちがいる中、小学生を引き取ることとなった伯母。人知れぬ苦労があったと思う。よかったのは私が「おなごのこ」だったことだ。(おなごのことは岡山弁で女の子)ご飯の手伝い・掃除・買い物と昔気質の家なので、息子たちは台所には入らないように大きくなっている。家事が一緒にできるのは嬉しいと言っていた。

伯母は裁縫の仕事をしており、3軒隣の工場で働いてた。家でも裁縫が好きで、編み物・服つくりを教えてもらったものである。足踏みミシンも教えてもらい、私もよく作ってた。おなごのこは字がキレイで、裁縫ができたら生きていける(手に職をつければ)からと、色々と教えてくれたものだ。純粋な私はどちらも楽しくて、今でも裁縫や字は汚い方ではない。しかし伯母よ。それは昭和初期の話じゃないのか?(笑)今じゃパソコンが主流になったよ。

いいか。どんな時も笑っとけ。あとケンカは強いやつとしろ!

伯母はこの二つをよく言った。笑う門にも福来るという意味だけではない。苦しくてもつらくとも、笑え!そうしたら悪いことに引き込まれないからと。なので、私は常にそうした。

というのも…母がいない。父が倒れ、障がい者にもなりで、同級生から「親なしっこの障がい者もち」なんて言われてケンカもよくしてたのである。今じゃ片親世帯なんて山のようにあるのに。それが悪い風潮だった頃の話。

同級生の女の子は同じ力だ。喧嘩をするなら男の子と。上級生と馬鹿にするやつは相手にするなということだったんだよね。でもね、、、おかげでなんだか冷めた子供になったのも確かだよ。で、ケンカや言い合いは常に男子とすることに。これが私の気の強い根源かも(笑)

なんで迷惑ばっかりかけるん?

姉から聞かれてしまう。「そんなん、うちらが来たことが迷惑なんじゃし、親と思って接しとるっていうなら、こっちだって本当の親と思って反抗してもいいじゃん」

中学生に父は日常生活に落ち着いていた。しかし、私はとにかく家が嫌で遊ぶ方が楽しいもんだから…夜な夜な友達と遊び、夜中の学校のプールの裸でダイブ。尾崎豊さんの15の夜そのままを走っていた。といってもつるむのはスキではなく、自分の遊びたい時に遊びたい人と一緒に過ごすのは、今も変わってない。

ただ、おじいちゃんから続く(といっても小さなお店)お餅屋さんの店が近くにあり、「ふうがわりぃから、やめなさい」とよく怒られた。ふうが悪い=世間体が悪いからって関係な~い。とタバコを14歳~吸っていたら、三婆(父の姉たち3名)のひとりが「幸子私もタバコ吸うけど外ではやめなさい」と言われる。意味わからない言葉。タバコじゃなくて吸うのがダメなのか?吸っている姿がダメなのか?明らかに後者の発言に、またおかしいと突っぱねる。

まあ、反抗期の小娘。何言っても可愛くないもんだ。

なんならこっちの頬もぶったら

伯母に夜遊びも見つかり、タバコも見つかっても、自転車で紙パックの日本酒を飲むような中学生。怒りの頂点になった伯母が部屋に来て

バチ~~ン

持っていたスリッパで私の頬を思いっきりたたいた。何を言ってたかなんてもう覚えてはいないが、私も言った言葉は、「よう叩くな~。なんならこっちの頬もぶったら気が済むんじゃね」と冷静に発した。伯母は真っ赤になり、私をガンガンに叩きのめした。「叩けたたけ!もう終わりか!」痛さは隠し、くそばばあと心で思いつつもたたかれまくった。(今思うと小さいときに伯母が流した涙がずっと引っかかってたのだろうな)

あなたのレールには敷かれたくない

こういって家出を強行したのは中3。当時ポケベルも携帯もない時代だった。もう何もかも嫌だった。父のことも、家のことも、伯母家族のことも。とにかく逃げたかったのだ。ご飯なんていらない。自分で早く稼がなきゃ生きていけないと。とはいえ、働く場所もなく・・・

家出は鈍行列車で東へ東へ。。。確か姫路の方まで行っていた。1週間ほどだろうか?友達に公衆電話から連絡すると「めっちゃやばいし皆心配しとるから帰っておいで」と。それもそうだ。だって先輩とかの家でもなく、ただ外をさまよっているような生活。家出の際に伯母たちに手紙を書いていた。

あなたたちのレールには敷かれたくない。母と父が離婚して・・・となんだかめっちゃキツイことを書いてた。なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。もう取り返せなった。(ず~っと大切に保管してたみたいだ)

しかし中学生なもので、ご飯もなくどうしようもなく家に帰ると、父や伯母からはめちゃくちゃ怒られ、伯父には「ごめんなさい」と玄関の外で謝った。伯父はあけたドアを無言で閉めた。これが一番こたえた。家出で伯父とも関係性も悪くなり、口をきいてくれだしたのは、結婚してからだった。。。

その後私は中学を卒業し、レールには敷かれたくないと言った通り、受かった高校も行かず仕事をはじめ、楽しくて仕方なかった。もちろんよく遊んだ。そして、17歳の時結婚して出産を決めた。(なんかよくある非行ドラマ)

なんし~きとん

結婚・出産を決めた私は父と伯父夫婦に挨拶をしに行く。

「おまえらも親がいない苦しみを知ってる。だから子供にはそうしないように」と承諾。父は何も言わずわかったの一言

「おじちゃんもお父ちゃんも許してくれてよかったな~」と二人家についたら。。。玄関に見知らぬ靴

「おばあさん(当時元旦那さんのおばあさんと暮らしてた)ただいま~。どなたかお客様~?」なんてきれいな言葉使いになっているのだ(笑)

「さっちゃんのお母さんが来ているよ」

私は頭が真っ白けっけのケ~だ。お母さん????さっちゃんのって言った???もうわけわからず。外に連れ出した「なんし~きとん。なんし~ここ調べてきたん」もう十年以上も会ってないのに、しかも嫁ぎ先にきてるから、私も腹が立って仕方なかった(なんし~とは「何をして」岡山弁)

「いや~あんたがまだその年なのに結婚するから、うちの姪っ子がこまっとんよ」

は、は、ははははははははははははは~~~~~だ

「いや、私はあなたが産んだ子だけで、育ててもらってないし、そもそもあんたとお父ちゃんが離婚した方がふうがわりかろ」私にもおなかに子供がいた。それなのに。こんなことしか言えない母を罵倒し早く消えるよう促した。

最後に母は「子供がおるんじゃろ、気を付けて元気な子を産むんよ」と残して去った。それから子どもも産まれ、どうなりこうなり生活をしてた矢先。

「おめえのお母ちゃん死んだで」

母の弟が私の働くGSにくる。???おじちゃん、なによん。こんなとこで。いつ?昨日?と通夜葬式の日を聞き、行くか行かないか?悩んで伯母に連絡した。「通夜はいかなくてもいいんじゃない」実はこの回答の向こうには裏話があった。数年後、伯父に聞いた話だが、伯母は葬式にも行かせたくなかったらしい。自分が育てたし、何で今更と思ったようだ。伯父は「行く行かないは本人たちが決めることであり、行かせない事は、おまえにも幸子にも後悔が残るから行くように言いなさい」伯父のおかげで、最後母という存在を感じたのだ。

これ入れてもいい?

母はやせていた。ガリガリになっていた。罵倒してから約1年ほどで他界したのだ。よくよく聞くと、あの後すい臓がんがわかり、開腹するも手に負えずそのまま閉じたようだ。もしかしたら、自分の死期がわかって会いに来たのかもしれない。優しくしてればな~と思いつつも特に寂しくもない。当たり前だ。ずっと暮らしてなかったから実感もわかない。しかし。。。「これ入れてもいい?」と当時母と暮らしていた男性から写真を数枚見せられる。私の写真が山のようにある。へその緒もだ!なんで?と聞くと

「姉のは長女で色々と持ってこれなかったけど、次女のあなたのものは持ってきて、大事にしてたよ。」

お母ちゃん、私たちと離れたの本当につらかったんだ。愛されてたんだ私。と初めて母という存在を理解した。

娘にずっと罵倒され続けてきた母はこうしてあの世に(享年49歳)もし今度会うときは言おうと思うことがある「素直に会いたかった」って言ってよ。だ。それだけできっと私の心の中の大きな硬い岩は小石のように砕けて流れていったのだと思う。

それからも沢山のことがあった。。。そして今から7年前

伯母の急死

昼寝をしてそのままだったそうだ。伯母がと連絡をもらい、病院に駆け付けたが、もう駄目だった。。。いとこのお兄ちゃんに泣きついて無茶苦茶になった。その後、伯母の家に数日泊まる。私は出しゃばりすぎず、できることをと、伯父のことや色々していた。この時、伯母は私の父の姉でという立ち位置ではなく、伯父に嫁に行った人。だから、お兄ちゃんたちの手伝いくらいしかできない。一緒に暮らした時間が長くても、やっぱりココは前に出てはいけないのだ。

しかし、いつも電話してきて愚痴を言ってたが、もう眠ったまんま起きない伯母がいたのが、つらく悲しかった。伯母はいつも私にこうだあ~だと言ってきた。私が一番の聞き役でいつも聞いていたので、時々めんどくさいけどいなくなるとなぜか寂しいものだった。伯母が亡くなったのはつらかったが、何も苦しまず、昼寝の間にということだけ、伯母にとっては良かったのだろう。と言い聞かせた。

「おばちゃん、もう楽になったね。本当にいままで、辛いことも笑顔で何とかなる!と教えてくれてありがとう。」こう思いつつも当時私自身も離婚したばかりで、事業立て直しをしている最中。余裕もなくとにかく時が解決してくれた。

最後に

こうして、文章にしていくと、本当に可愛くない反抗期時代。しかしどんな時も自分の決定で動いてた。しかし自分の傷を誰かにぶつけたかったのだろう。お母さんという存在はいなかったが伯母という母代わりがいてくれたことは、大きな支えになった。ありがとう。

5才の時からずっと遠慮してきた。「私ってここにいてもいいのかな?」だ。だから自分の居場所や立ち位置探しに迷い迷った。きっと伯母も「母役」に迷ったのだろう。しかし、本当の娘のように育ててくれた。どんな時も味方だった。だっておなごの子を大きくするのも初めてだもの。
今は、母のことを憎んでも嫌いでもない。それより、伯母との想い出が走馬灯のようになる。

      実母より育ての母。これは、まぎれもない事実

実母もまた、自分の存在(母親として)が消されてしまうことが寂しかったのだろう。でも、亡くなった当時に長年暮らしていた男性がいたことは良かったと思う。彼女は彼女の人生で幸せを見つけたのだから。
私も今、31歳の娘を持ち、孫が二人。母として娘に何かを教えてあげたりすることが幸せである。伯母にもこの孫に会わせたかったな~。と思う。そしたらきっと私の娘にしつこく言うだろう(笑)

○○ちゃん(私の娘)の小さいときの寝相が悪くてよく私もおじいちゃん(伯父)も起こされたよって。

私の孫を実際会ってもらえたのは、次に書く伯父(2019年没)だけだった。


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