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4人の親の死①実父編「生き返った父」

こんにちは。柚木幸子です。岡山市でサロンtrueNPO法人オカヤマビューティサミットを運営しています。
今日は私の人生において実の親と育ての親は切っても切り離せません。
軽く昨日お店のブログにも書いたのですが、noteでは少し詳しく書きたいと思います。投げ銭的の100%公開にしました。そしてもしよろしければ100円でご購入ください。今ひとつ!!の際はスキ♡やコメントをいただくと私も励みになります♡それではよろしくお願いいたしますm(__)m

私の誕生

父が36歳の時、母の年はわかりませんがおそらく30~32くらい?私が誕生!!4つ姉もいるのですが、どうやら私の前に男の子が残念ながら死産だったようで、私が女だとわかって父はショックだったとのこと。おかげで子供のころは男の子の遊びばかりするアクティブマシーンでした。

両親の離婚

私が5歳の時。両親の離婚。離婚決定も親族会議が行われ、その様子をふすまの陰から覗いてました(家政婦の市原悦子さん状態(笑))
「お父ちゃんとお母ちゃんりこんするんじゃな~」と姉に言ったのを覚えてます。そのころ、いわゆる街金が毎日家に回収に来るような家でした。
「おかあちゃん居るか?」とスーツのおじさんたちに交渉している母を何度も見たことか。多分あの方たちは今の法律では違反だろうね。優しくて怖くなかったのが幸いですが…

離婚が決まって、父方に引き取られる。

父が大好きだったので、母と離れることも悲しくもなくでした。が、当時三交代勤務の父。5才と9才の姉を一人で育てるのは、夜中もいないことがあるので、難しいだろうという判断から、私は父の姉夫婦の元に引き取られ新しい生活が始まったのだ。
後で聞いた話。当時伯母(父の姉)は「私も家庭があるから無理」と言ったら、伯父が「俺が引き取る」と叔母に「そんな人間なのか!?」と初めて手を上げたそう(ごめんよおばちゃん)

なぜ、伯父は私たちを引き取ったのか?

伯父は私のおじいちゃんに、伯母と結婚するときに「俺と飲み比べして、お前が酒に弱いような奴なら嫁には出せん」と言われ、2升以上酒を飲み納得され結婚したそう(今では考えられない話)その際に「俊夫(私の父)を頼む」と言ったそうだ。そして、伯父も幼少期に両親を亡くし大変だったと聞いた。そんな律儀な伯父だったので、自分は引き取る気満々。どうやら自分の嫁が引き取らない選択をしたのも気に食わなかった様子で、後にも先にもこの1回が手を上げた瞬間となる。伯父には息子たちがいて、私には従兄弟にあたるのだが、前出に言ったように、私は父が36歳の時の子供。年はひと回り以上離れているのだが、本当によくしてくれた兄たちである。

育ててもらいながら、私はどうやってみんなを呼んだらいいのか?と思ったので、伯父に聞いた。そんな時伯父や伯母は「あなたの両親はちゃんといる。私たちのことは今まで通り、おじちゃん、おばちゃんでいい」とのこと。なんだか、寂しく感じたが、当たり前のことである。ちなみに従兄弟は〇〇兄ちゃんと昔から呼んでいたのでそのまんまで。

そうして、この親戚の家で成長していくのだが、伯父は船乗りの船長さん。4日くらい仕事にでて帰ってきたら「仲間と親せきと飲み会」このおかげで何度お酒を買いに行かされたことか。昔は瓶をもっていけば10円くらい引いてくれるので、小学生1年のチビっ子が一升瓶をもってお使いなのだ( *´艸`)想像してほしい。。。一升瓶を抱える小学生。しかも帰りは酒が入っているもんだから重い。とにかく「割らないように」と抱え歩いてると、前を歩くお使いの子が”ぱりーーーん”私も心臓がバクバク音を立てる。その瞬間酒屋に駆け込み、事情を話しその子は新しく酒を内緒でもらえた(昔の良き時代)

それでもいやな気はせず、お使いに行けばお小遣いもらったり、褒められたり嬉しかったのだ。なんといっても集まっているおじさん・おばさんが肩たたきでお小遣いもくれる!いつも伯父が返ってくる日が待ち遠しかった。もちろん、父も休みの日には来てくれるし、父も酒飲みだったので、おじちゃんの家でみんなワイワイと楽しくしてる時が私は楽しくて仕方なかった。

伯父の家にはそう、私たちだけでなくいろんな人が来るたまり場だったのだ(笑)伯父自体がみんな大好きで心の受容体が大きかったのだ。

あんたがいなければよかった

これは伯母の言葉。多分引き取られて半年ほど、私が学校から帰ったら伯母が泣いている。お仏壇の前で。重ねた座布団の上で。

私「おばちゃんどうしたの?」
伯母「私はつらい。本当につらい。あんたがいなければよかったのに」

何度も嗚咽を上げて泣くのだ…一瞬何を言いたいのか?わからなかった(そりゃそうだ小1の子供)ちょっと時間をおいて理解した。
「伯母は私を引き取って、苦しい思いをしてるんだ。私はこの家のお荷物なんだ」と。この時の話は私と伯母だけの話。衝撃的だった、今朝まで、元気で行ってらっしゃい!と言っていた伯母から出てくる言葉。誰もいない家で二人だけになって本音が出たのだろう。私は苦しかった。「自分の存在が大好きな人たちを苦しめてる」と。早く自立しよう。とこの時思った。

人の親勝手に倒れささないで

ある日、学校から帰ると従兄弟が「おめえのお父さん倒れて病院じゃ。どうなるかわからんらしい」と。私はまたからかわれていると思い「もお冗談やめて~。人のお父ちゃん勝手に倒れささんでぇ」。。。。。。。。。。「え!?本当?」「お父ちゃんは?」と玄関でのやり取り。「今手術中らしいから、また電話かかってくるから待つしかない」と、その日は寝れない夜を過ごしたのだ。明け方伯母から電話がなり「とりあえず一命はとりとめた。でも意識不明のままだから。幸子たちはまだ病院には来ちゃダメ」伯母たちのやさしさであろう。自分の父がいろんな装置をつけさせられているのだから。それから数日しても意識は戻らない。時折聞く父の状態は「もしかしたらこのまま植物状態かも」だった。

幸い父には兄弟姉妹がたくさんおり、特に三婆と呼ばれる姉三人が変わり交代で泊りがけの看病してくれてたのである。この前まで元気だった人がいきなりこのような状態で、当時の記憶は、伯母たちが電話してきたときに父の様子を聞くことだ。しかも黒電話が鳴るのだから、その音にビックリしながら、父の様子を聞く瞬間がホッとするときであった。そして、「お父さん意識戻ったよ」の連絡。キターーーーー!(^^)!やった。1ヶ月近くさまよって戻ってきたのだ。

覚えてない?覚えてる?どっち

意識不明から覚めたらと約束していたのが父との面会。
「明日、お父ちゃんと会える~」なんてルンルンしてたら(この時から楽観主義者なんだろうな)夜に伯母たちに

お父さんはあなたたちのことを思えていない可能性がある。顔もわからない。名前もわからないこともあるかもしれないから、覚悟して面会して。

と、父の病気の詳しい説明をうけ、わからなくても「これは病気のせい」を胸に刻んで、いざ出陣。ちょっとドキドキした高揚感から、姉に「おとうちゃんうちらのことわかるかな~?」「どっちかな?」と話してたら、「そんなのわからない」とボソっと。まだまだ子供の私はクイズのような気分だが、周りからしたら、子供の顔も名前も覚えてなかった時、子供たちのショックを考えたら、クイズのような気分にはなってない。当たり前だ。でも、無邪気な私は高揚感と緊張を胸に病室のドアを開けた。

おとうちゃ~ん来たよ

寝てる。父はいろんなものつけられて寝てる。顔は父の顔だ。でも丸坊主で、頭にでっかい包帯ぐるぐる巻き。なんだこれは?これは父なのか???と。思ったとき父が目を開けた。あっ目開いた。お父ちゃんって手を振る。近くに行く。で、父をのぞき込む

父がやっとの声で「〇〇、幸子」といった。よっしゃ!覚えてる~~!!「おとうちゃん、私たちのことわかる?」「顔もどっちかわかる???」

「こっちが〇〇。お前が幸子」とニコ。帰ってきました。俊夫さんお帰り!!父の手をしっかり握った私。病室の緊迫した空気は安堵と喜びに。ふと見ると伯母たちは泣いている。私はとにかくうれしくて「私のことわかったよ。おとうちゃんすげ~よな」とはしゃぎまくった。しかし、父は右手以外全く動くことは出来なかった。この先父は壮絶なリハビリが始まるのだ。父の病気は脳出血でした。亡くなったのは66歳なのですが、亡くなる3年ほど前に脳のMRIを取ることになり、私は父の現像写真をはじめてみました。見事に右側半分以上が真っ黒で。その時のドクターから、「お父さん、脳出血の時本当に奇跡的に助かったんだね。処置が遅かったら死んでて不思議じゃない脳の状態。よくここまで回復されてる」といわれました。

父は倒れた当初、ちょうど仕事中で具合が悪いから帰ろうとしている時に倒れたそうです。周りに人がいてすぐに救急車を呼んで、地元の病院へ。ここでは見れないから、大きな病院の〇〇ドクターにすぐ見てもらえるよう救急車でさらに搬送。然るべき病院に搬送されたことが一命をとりとめた。奇跡的な状況でした。今、思えばまだ父が生きる意味があったのだと…

なじめない

父はそれから、病院からリハビリに特化している病院に転院。
そこは当時、脳出血などで入院している方も多く、みんないろんなリハビリをされてました。
字を書く練習・本を読む練習・歩く練習などなど日常生活で必要なことを。
「おじちゃんは何で本読んでるの?」と聞くと
「ちゃんと話せるようになる為じゃ」とうまく喋れない入院患者さんと話しつつ、国語の教科書を一緒に読んだり。ここでも、私は元気でいつもお気楽ものです。みんな大きな装具を足にはめたり(不随なので、この装具がないと立つことができません)使える手や足、口を使っていろいろとしています。とある日手伝いをチョットしようとしたら「ダメ!」と看護師さんにSTOPかけられる(リハビリにならないからダメだよとのこと)そんな看護師さんの真似してみたり。父のリハビリは、見ていてとても苦しかったです。必死に歩こうとしても、足が出ない。痛い。しかしあきらめない。そんな父もやっと退院。もう1年が経ってました。

帰ってきた父との暮らしが始まります。病院での生活でできたことと通常の生活では勝手が違いすぎます。トイレもお風呂もちょっとした段差も。外を見れば、普通に出勤するサラリーマン。ちょっとしたことでカリカリする父がいました。父との衝突も増えます。そんな時、父がふと

「あそこへロープ掛けて、首つったら死ねるかの?」私の中でずっと我慢してきたことが一気にプツンと。。。

「死ね!死にたいなら死ね!私たちの目の前で死ね!せっかく生きて一緒に暮らせてるのに。私たちを置いて、親のいない子にしたいなら死んでしまえ!!!!」

父も死ぬことより、娘の恫喝に腹立ったのでしょう。泣きあい殴り合いのケンカです。姉も仲裁に入れないほど(笑)

「働けれん気持ちがわかるか!」バチ
「わからんわ!」バチ
「親がいなくてつらい気持ちになるこの気持ちわかるか!」バチ
「わしらもそうじゃったから、そのくらいわかるわ!」バチ

と。もう怒りも涙もぐちゃぐちゃ。今では笑えますが、激しすぎて隣に住む伯母も従兄弟も止める始末です。後にも先にも父が私に死にたいと漏らしたのはこれが最後でした。一般の生活になじめなくて苦しかったんだろうなと思います。

お久しぶ~りね♪

本来の父に戻り、私に娘が生まれ、私の元旦那さんとの4人生活が始まりました。毎日病院に行くのと、喫茶店へ行くのが日課。
孫である娘と一緒にお風呂に入れたり、私も仕事してたので父が家にいることで、安心して仕事できました。父も寂しくなかったようでよかったです。
お酒好きなのですが、体の為もちろん禁酒。料理用のお酒も隠してましたが、ヘビースモーカーでそれだけは楽しみの一つとしてOKにしてました。時代は介護も手厚くなってきて、ホームヘルパーさんや市の公民館へ遊びに行くようになり、楽しみになってきた様子。
父のあいさつは「お久しぶ~りね♪」と小柳ルミ子さんの歌がこんにちはの変わり(笑)いつも明るい俊夫さん節全開です。パンが大好きでよく食べて歌も大好きでよく歌ってました。そんな父がちょっとずつ食べれなくなってきました。食べれる量が徐々に減って少しずつ食べるのです。。

ロウソクの火が消えてる

月日は過ぎ、どうやら父のオーラがない…

ふと見ると父のロウソクの火が消えてる(少し見える人です私)
これは死期が近づいてるな…と思い、病院に。検査結果は肺がんステージ4.転移はないけど。余命半年ほどと。
もう長い間、病院通いの父からしたら察知したのでしょう。病名は伝えないことにしましたが、治療については本人確認も必要です。
医師「もしも、何かあった時にどうしますか?」
父「この子に任せてるから、この子の好きなような方針でして。わしはちょっとトイレじゃ」
と言い、診察室を出ていきます(おいおい、私一人にすべてを決定させるんか~い)と思いつつ
「父は20年前に脳出血であの体になり、一生懸命生きました。なので延命処置もせず、安らかに自然の死を迎えさせてやって下さい」

ここから、父の最期までの治療が続きます。そして、父は30歳の私の誕生日になった瞬間、桜の花が散るように逝きました。享年66歳。しかし父は強かった。喉の手術で全く声が出なくなった父。なくなる数日前に、大きな声で、病室のみんながビックリするぐらいの

ありがとう

を言ってました。父よ。泣きましたよ。震えましたよ。いつもあなたが弱る姿を見て、父が亡くなるまで、父の前でも家でも泣かない!と決め運転中に一人泣きながら家に帰って私が。
そのご、父が意識混沌の中
「おとうちゃん、もういいいよ。頑張らなくて。あなたは私の誕生日に亡くなるつもりでしょ。いいよ一緒にお祝いもできるしね」
といった通り、日が変わった0時12分でしたね。静かにロウソクが消えた一日で、もう涙も流す間もないくらい、喪主としてすること山!泣く暇なんてあったもんじゃない・・しっかりしないと。私が父をおくらないと・・・そんなこんなでやっと泣けたのはお葬式終わってからでした。

人生においてこの人は、幼少期に母を亡くし、実姉の家に養子に出され成人になって、本来の戸籍に戻るも、末っ子ゆえ様々な試練があったと聞きます。(父は9人兄弟の末っ子)そして、結婚生活も途中で終わり、子供たちとも離れ寂しく過ごしてたところに大病。本当は生き返りたくなかったのでしょうねと思います。私は思うのです。

父は私に背中を見せるために生き返った

生きる試練・生きる楽しみ・生きる苦労・生きる強さ

働くだけの父でしたら、このようなこと思えなかったでしょう。すべてを背中で見せるために。ちょっとだけ左に傾いた背中(左半身不随なので体が左に傾きます)で、杖をもって、上がりにくい足をしっかりと地につけ一歩ずつと。人生は何が起きるかわかりません。明日の自分の人生が悔いなきよう日々”生きる”ことを大切にしていきます。明日今までの生活がなくなったら?明日大切な人がなくなったら?悲しんだら?明日のことを不安になってもどうしようもありません。しかし、”人は生まれてから死ぬまでが試練”常に何かあってもいいように、日々アンテナを張って生きていかねばなりませんね。そして、どの状態でも笑顔と希望を忘れない背中を見せてくれた父には、悔しいけど乾杯(本当は完敗の意味)

そしてあなたが最後に発したありがとうをあなたに送ります。

お父ちゃん!ありがとね~!!!


最後まで読んでくださった皆様へ

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ご購入してくださった皆様。ありがとうございます。
2020年、3月29日私は父が倒れた47歳を超え、父もなくなって18年。私も48歳になれました。仕事も休みお墓参り行脚し、海でのんびりと向き合えた良き誕生日でした。写真は地元の瀬戸内海です。穏やかな海で心も穏やかになれます。普段、経営する中でこのようなちょっとした時間は、とても有意義です。現在コロナで大変な世の中ですが、必ず未来は来ます!絶対に!そのために今、自分を大切に。そして自分の周りを大切に。それが結果的に全世界につながります。命は尊きもの。それを生かすのも殺すのも自分です。今できることはたくさんあります。知恵を絞っても出ないときは苦しいの一言を。だれも卑下しません。そんな気持ちで、今これを書いています。
同年代の方より深く濃い人生を好んで(笑)歩んでいるらしいのですが、私の人生の一部を書き連ねていくことで、誰かの心に強さを響かせれれば幸いです。
次は母と伯母の話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします♡本当にありがとうございます♡皆様のご無事を心から祈っています。

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