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創作大賞2024恋愛小説部門応募作「青い海のような、紫陽花畑で」最終話


それから
ふたりは長く、沿うことのなかった時間を、
埋めるのではなく、無垢な気持ちで新たに始めた。
些細なことで笑い、些細な幸せを感じた。

たくさんの感情を知ることが人生だと
したら、絡まる思いはいつしか解け、
存在することの喜びが鮮やかに広がる時、
無邪気さに還って行く。

その日、ジェレマイアの手を引いて
リズは紫陽花畑へ。
昨夜はたくさん、雨が降った。
そしてここ数日の雨も土に染み込んで、
紫陽花はきっと、色づいているだろう。

もたげた紫陽花はアーチのように、
その入口を通り、
薄いブルーの無数の紫陽花の中を、
ジェレマイアの手を引いたリズが
進んでゆく。
リズに引っ張られて歩く、ジェレマイア。
思えばこれまで、ずっとリズの揺るぎなさ
に支えられていた。

「リズ。」

リズの肩にトンボが止まっていた。
ジェレマイアは静かに触れる。
すると、トンボはジェレマイアの
指に止まった。
空のような色の、美しいトンボだった。
昆虫や小動物が好きなジェレマイアは
子供の頃、よく森へ入った。
いつまでも帰ってこないジェレマイアを
心配し、リズは森へ、迎えに行ったのだ。

あの時、どうしてあんなに
このまま帰って来なかったら、と
不安だったのだろう。
ジェレマイアと離れることがなぜ
あんなに辛かったのだろうか。

リズは、子供の頃の、あの思いを
辿っていた。

そして大人になり、何度も自分から
去り、それでもまた、探しに森へ入った。
自分の愛を、探しに。

風が吹き抜ける瞬間を待っていたように、
トンボは飛び立った。
ジェレマイアの手から。

それでもすぐに加速するのではなく、
左右を旋回し、まるでリズとジェレマイアを
導く。

「呼んでいるみたい。」
リズはトンボを目で追っていた。
空色のトンボは太陽に照らされ、
澄んだ輝きを放ち。

ふたりはトンボの導きに委ねるように
歩き、そして。

リズは息を呑んだ。
それは、今まで見たことのない、
深い、深海の、そして夜空のような青。

「海。」

リズは呟いた。

ジェレマイアを見ると、
目を凝らしているようだった。

ジェレマイアの視界はまだ、
鮮明ではなかった。
靄がかっていた。
それでも、青い海のような紫陽花畑は
まるで夜空に散りばめた星々の輝きの
ように、ジェレマイアには映っていた。

「あなたが、世界が美しいのだと、
また信じられるようになったら、
靄が晴れるのだろうけれど。」
リズはジェレマイアの肩を抱いた。
ジェレマイアはそのリズの手に
自分の手を重ねた。

「僕はリズを信じているよ。
自分の人生も信じている。
世界がすべて、美しいと信じられる
までは、靄は晴れないかもしれない。
それでも時々、光を見る。
光は僕を君の元へ、
僕の人生へ、還してくれた。」

ジェレマイアはリズの手を強く握った。

「きっと、もうすぐだと思う。」

リズはジェレマイアの横顔を見ていた。

「愛しているわ。」

それは少し、唐突だった。

ジェレマイアは照れたように笑った。

「あの時と同じだ。」

ジェレマイアは風に靡くリズの髪を撫でた。

「暗い森が怖くなって君は僕を呼んだ。
何度か僕の名を呼び、そして。」

もうそのことは忘れてしまっていた
リズは不思議そうに見ていた。

ジェレマイアはたまらず、笑い出し、
それから優しい笑顔で言った。

「愛してる!
君はそう、何度も叫んだのさ。」

リズはゆっくりと思い出した。
ジェレマイアを探しに行ったのに
見つからず,怖くなって,呼び続けた。
そして、愛している、と泣きながら叫んだのだ。
気恥ずかしくなって、リズは顔を手で覆った。
それから、リズは笑い出した。

「子供の頃から私はきっとわかっていたのよ。
私の場所は、あなただって。」

そう、いつもリズは自分を
まっすぐに見つめる、その美しい瞳で。
ジェレマイアはリズを抱きしめた。
そしてリズも、ジェレマイアを抱きしめた。
それはまるで、自分が自分を抱きしめて
いるかのように、
深い、何か。
透明な糸で紡がれた何か。絡まりながらも
切れることはなく、迷いや悲しみに翻弄され、
その度に純度が高くなり、それは愛を紡いで
いた。自分の愛を、自分への愛をも。

紫陽花は青く、蒼く、海のように
さざなみのように揺れていた。
リズとジェレマイアを、ずっと包んでいた、
優しい、青い海、青い海のような、紫陽花。


世界はしばし、愛を忘れ、
奪い合いをする。無垢な傍観者は、
その運命に抗えず、容易く落胆し、
自分の真実を放り出す。
いつしか、愛を忘れ、遠くまで探しに行く。
疲れ果て、泣きじゃくり、そして
もう手の中にあったのだと、やっと気がつく。
それまでに何十年と時を重ね、
男と女は愛を交わし、その交わした先に
命が生まれる。生まれた命は真実である。

鮮やかに揺らぐ、幾つもの感情から
真実が生まれ、愛が生まれ。
そして、
海に還るまで。


砂浜を歩く、ジェレマイアは
背を向けたまま、リズに手を差し出す。
潮風に絡む髪を掻き上げて、リズは
走って追いつくと、ジェレマイアの手を
掴む。

離すことはない、この温もり。

私の愛は、私の真実は
私が見つけ、そして私が決めるの。
リズは海を見ながら、
心の中で呟いた。

運命に舵を取らせず、
自分で人生を描く。
誰もが、愛だけを持って生まれた。
そして、愛だけを持って、海へ、空へ
還って行く。
その存在が置いて行った愛は
いつか、どこかで心と心を結ぶ。
そのために、生まれた。
そのために、生きる。

また、美しい愛が交わされ、
すべてが至上の、光のように。


おわり


























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