見出し画像

創作大賞2024恋愛小説部門応募作「青い海のような、紫陽花畑で」7話


6月、
咲き始めの黄緑色の紫陽花は
朝露を帯びて、瑞々しく輝いていた。

リズは紫陽花を手に取り、
微笑んだ。
深く、濃く、
だんだんと色づくのはまるで、思いのように。

リズの、細い首筋を初夏の風が優しく撫でる。
それはジェレマイアのあたたかな眼差しや、
安心感のある手、不器用で繊細な心、
そのすべてを、リズに思い出させた。
少年と少女の抱擁は黄緑色の、若草の
妖精が光の中で揺れるように。
そして、大人になったふたりの抱擁は
あの夜の、結ばれた夜の、
何かが剥がれ落ちるような、
一枚、一枚、花びらが散ってゆくような。
散った花びらはジェレマイアの手の中に
集められ、繊細に優しく、包まれ、
そしてまたその手から溢れ落ちる。

心と魂の記憶が体を巡ってゆく。
リズは胸に手を当て、静かに
呼吸を繰り返した。

それから
ズアオアトリの鳴き声を聞いていた。




世の中は不穏に侵食されて行く。
義母の薬を貰いに行く途中、駅までの
道が騒がしく、リズは嫌な予感がした。

庭先に座り、編み物をしていた老女が、
通り過ぎようとするリズに言った。

「奥さん、この先は行かない方がいい。
見ない方がいい。」

リズは一層、不安になった。

「何があったの。」

老女は首を振った。
そして編み物をする手を止め、
リズを見て言った。

「敵軍が駅で爆破を行って。
大人や子供、馬も犠牲になった。
つい、1時間くらい前のこと。
世界はいつの時代も狂っている。」

リズは呼吸が止まりそうになった。
ブライアンが子供たちを連れリズの両親を迎えに行ったのだ。1時間前くらいに到着し、列車から
降りているはず。

リズは足が震え、その先を見に行く
ことが出来なかった。





自分がいなくなってしまえば
ジェレマイアとの、愛の苦しみは
なくなる。
リズは何度もそう思ってきた。
そう思いながらもすべてを崩して真実に
生きる勇気はなかった。
ジェレマイアへの愛とは違う、ブライアンとの
結婚生活、愛するテディとイリス。
それは家族であり、セオドアとメアリーも
家族であり、そしてジェレマイアは
家族であり、愛であり。

ジェレマイアとの一夜を、逢瀬とは
思いたくなかった。
しかし、自分のしていることは不貞なのだ、
と、リズは思いに苛まれることがあった。
そして、耐えかねてジェレマイアは遠く離れた。
自分さえいなくなれば、という、
幼稚で浅はかな考えは、成熟しきれない、
何という哀れさだろう。
不誠実で、浅はかで、幼稚だと
自分をことごとく、貶めるならば、
成熟した、良識ある大人であったブライアンと
セオドアとメアリーがなぜ戦争の犠牲になった
のだろうか。
純粋な天使のような、子供をなぜ奪ったの
だろうか。

「私は、生きている。」

リズは枯れ果てた涙に、掠れた声を
絞り出すように呟いた。
こんな時であっても
ジェレマイアに会いたかった。
この、救いようのない愛の深さは
身勝手さは、自分が作り出した幻想なのだろうか。



その瞳の美しさは、澄み渡る湖のようで
もっと深い何かを探り、知る必要のない、
至上に満ちていた。
美しい馬、パドゥシャ、彼女の鼻に額を
当てると、青草の匂いがする。
「パドゥシャ、君は素晴らしいね。」
ジェレマイアはパドゥシャの首筋を撫でた。
馬体は深い栗色とも褐色とも、何とも表現できない、
彼女らしい、個性に溢れた色。

「パドゥシャは女神だ。」
ユアンは言った。
その言葉に反応したのか、パドゥシャは
鼻を鳴らした。
「メス馬には珍しい、気骨がある。
こんなに愛らしい姿であるのに、怯まない。
野性の血が激しいのに、普段は穏やかだ。」
ユアンは愛馬を自慢していた。
「本当に、素晴らしい。」
ジェレマイアはパドゥシャの前髪を
撫でながら言った。

「先生、どうして軍医に?」
ふいにユアンに聞かれ、ジェレマイアは
口ごもった。
その様子を見ていたユアンは言った。
「聞かない方が良かったかな?」
ジェレマイアは遠くを見ながら答えた。
「逃避したかったのですよ、ある思いから。」
ユアンはジェレマイアに手を差し出した。
「わかるよ、兄弟。」
ジェレマイアは静かに笑った。
ふたりは握手をした。
「だいたい、人生なんてそれほど、
愛ばかりではない。そういう輩が集まって
殺し合いをしているまでだ。」
ユアンの目は寂しげに見えた。
「将校、だとしてもあなたは
愛する人の元へ、帰らなきゃ。そうしてほしい。」
ジェレマイアの言葉にユアンは少し戸惑った。
「どんなに求めても親に愛されなかった。
大人になり、誰かを愛しても、永遠を感じない。
いづれ落胆され、飽きられる。そう思えて
ならない。」
ユアンの言葉にジェレマイアはただ頷いた。
それしか、出来なかった。
「先生、あなたは人を傷つけるのが怖いのでは?」
気持ちを見透かされ、ジェレマイアは黙り込んだ。
「人を傷つけるなら、自分が傷ついてしまえ、
わかるよ。でもそれは結局、相手を傷つける。
誰しも無傷では生きられない。」
ユアンは指輪を撫でながら言った。
「あなたも愛する人の元へ、帰った方がいい。ここはだんだん厳しくなる。見極めは必要だ。人に傷ついても、時間が経てば再び、愛し愛される。けれども戦争は違う。トチ狂った連中は止まることを知らない。」
ユアンの言葉はジェレマイアの胸に響いた。
帰る、そう考えた時、リズを思い浮かべていた。
「リズ‥。」
ジェレマイアは呟いた。
ユアンは優しい笑顔でジェレマイアを見た。
そして言った。
「カタリナ。そうだ、自分もカタリナの
ところへ、帰らなくては。」
ジェレマイアは深く頷いた。
「どのみち、女の海に泳がされている
のだから、ですよね。」
ジェレマイアが言うと
パドゥシャが尾を振った。
「パドゥシャにも、泳がされているな。」
ユアンは愛おしそうにパドゥシャの
首を撫でた。
「将校、お互い帰りましょう。」
ジェレマイアは言った。
その言葉に、ユアンは目を輝かせた。

リズに会いたい、ジェレマイアは思った。










この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?