忙しくてもやるのか、忙しいからやめるのか
8月から結構なボリュームで時間を使うことがプラスされる。いや、プラスされるというか、自分でプラスするのだけれど。
私はこれまでの人生、割とギュウギュウに詰め込んで生きてきた方だと思う。それこそ睡眠時間を削り、体力が追い付かない分はすべて気力でカバーし、やるべきこと、やらなければいけないことが山盛りでも、やりたいことをあきらめたくなかった。それはライブだったり、友達と会う時間だったり、本を読む時間だったり、そんな特別なことではなかったけれど、特別珍しいことではないからこそ余計にあきらめたくなかった。もっと大きなものをたくさん諦めてきたから。
さて、ここにきてそんな私が悩んでいる。
ここ数年の私は、病気だったり更年期だったりで、その気力で乗り切るということができなくなってしまった。いや、できたのかもしれないけれど、そもそもその気力が昔のように湧いてこない。そのことに気づいた当初は、それこそ悩んだ。だらけているのではないか、人生を投げているのではないか、甘えているのではないか。そうやって自分を責めれば責めるほど動けなくなる。だから動くのをやめた。そんな自分と正面から向き合おうじゃないか。そう思った。
そんな私が、少しだけスイッチを入れた。去年はあまり無理をせず、こっちを増やしてあっちを減らして…というように。そもそも体力がない。気力は盛り返し傾向だけれど、体力はそんな風に自然の増えては行かないのだ。体力を戻すためには、体力を戻すための行動が必要なのだ。戻りつつあった気力で体力を補っても、総じて昔のようにはいかない。そんな自分に落ち込んだ。
そして今だ。おそらく7月までの総活動量(公私すべて合算)が100だとしたら、8月からは160、いや180くらいにはなるだろう。息切れする自分が見える。でも、だからと言って今まで少しずつ活動量を増やして積み上げてきた物を、ここで減らすのか。昔の自分のことを考えたら、気力体力さえついて行けば、忙しい方がパフォーマンスがよくなる。充実感が幸福感に繋がる。でも『気力体力さえついて行けば』なのだ。ちょうどいいところにもっていきたいが、どこがちょうどいいのかがわからない。
結局、まずはやってみるしかないのだろう。そしてヤバいな、これは倒れるやつだな、という気配をできるだけ早く察知して、調整をしながらやっていくしかない。それを察知するのが苦手ゆえに、気力で乗り切る人生だったわけだけれども。
さてどうなることやら。
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