私の当たり前は、あの人の当たり前ではない
当たり前のことをタイトルにしたが(これも人によっては当たり前ではない感覚だろう)、私はこれを、日常的におまじないのように唱える。
人とのコミュニケーションの中で、共感して欲しい、と思いながら言葉を発する場面は多々あると思う。しかし、共感というのは近い価値観の中で起こることではないだろうか。価値観といっても、具体的な言葉にできるものからざっくりとしたものまであって、そのざっくりとした価値観が合う人の言葉には、とりあえず肯定的なリアクションが取れるのではないかと思う。
ただ、話が深くなればなるほど、微妙な価値観のズレでひっかかりが出てくることがあるだろう。それまで何となく共感してくれていた相手がおや?という顔をし出すと、何とか共感の言葉を引き出したくなってあれこれ言葉を重ね、説得モードに入ってしまいがちだ。
ここででてくるのがタイトルの言葉だ。
『私の当たり前は、この人の当たり前ではない』
ここで、アイメッセージ(私は~)に切り替えて、あくまで私の考えはこうだけど、あなたがそうでなければいけないわけではない、ただ共感してくれたら嬉しいし、共感できなくてもお互いの考えを理解して折り合いをつけたい、というモードに入る。
これは私がアドラー心理学とアサーティブネスを学ぶ中で習慣にしたことだ。人間関係はいつも悩みの種で、サラリーマン時代は「職場選びで一番大切なのは職種や内容より人間関係だよね」などと言っていたくらいだが、私はやっぱり人と関わることが好きなのだ。人間関係が面倒だから、引きこもってできるだけ人と関わらずに生きていこう、という風にはならなかった。
とはいえ、特に身近な人、家族やごく親しい友人などとの関係では、どうしてわかってくれないの!どうしてそんなこと言うの!と思ってしまうことはある。実際口にしてしまい、言い争いのようになることもある。それは近しいからこそ分かってくれるという甘えであり、信頼でもあるのだと思う。
でも、そこで一呼吸おいて、タイトルの言葉を唱える時、私も少しは大人になったなと思うのだ。
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