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物事の見方の裏表

認定課題の早期回想内での気づき。

自分がダメだと思っていたことが、傍から見たらできている、ということがある。
記憶の中の子供時代の私は、年の離れた弟をいつも邪魔者扱いして、ダメな姉だったなぁと思う。外出先で、小さな弟妹の手を引いて歩いている優しそうな笑顔の子供をみかけると、私はそんな風に弟の手を引いて歩いたことがあっただろうかと考えるが、全く記憶にない。
ところが父は、さちはいいお姉さんだったよなぁ、よく弟の面倒を見てたよ、と言う。生前母も、さちはよく弟の宿題をみてやってたよね、と言っていた。全く記憶にない。誰かと間違えていないか?と思うが、我が家は私と弟の2人姉弟だ。

早期回想の練習の中で、弟との思い出を語ったところ、さちさんは弟さん思いのいいお姉さんだったのですね、と言われた。いやいや、真逆でしょう…と思ったが、ふと父母の言葉を思い出した。これはもしかしたら傍から見たらいい姉だったのかもしれない。
なぜこんなにも正反対の評価になっているのだろう。

客観的に見た事実は、確かに弟の面倒を見ていたのだろうし、宿題もみてやっていたのだろう。課題のパートナーをしてくれたクラスメイトの説明を聞いても、たしかにそう言われてみればいい姉だったと言えなくもない。でも、私の記憶には残っていない。全く身に覚えがない。
ふと、そう行動することを親から求められていたのを察して、無意識にやっていた、という可能性に気づいた。無意識だから記憶に残っていないのでは、と思うと納得がいくように思う。

同じ行動でも、面倒見がいい姉の行動に見えていた表側(人から見える面)と、そうすることを求められていたから無意識に従っていただけの裏側(私の内面)で、こうも評価が変わるのだ。
でも、事実として弟は親の手が離せないときでもケアされ、宿題のサポートも受け、十分かどうかはわからないが手をかけて育てられたことになる。私に対する評価がどうであっても、事実は変わらない。

それなら私は、過去の私への評価を変えてもいいのかなと思う。義務としてやっていたのかもしれないし、心の中ではメンドクサイと思っていたとしても、なんだかんだいい姉だったじゃないか。これからは『自称ダメな姉』をやめて『面倒見のいい姉』説を採用しよう。
物事の見方に裏と表があって、どちらの見方を採用しても、その物事自体は変わらないのだとしたら。見たい方、心地いい方、都合のいい方を採用してもいいですよね?(笑)

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